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点描画のスーラ

今日12月2日は、新印象派に分類される19世紀のフランスの画家スーラが、1859年に生まれた日です。

パリの裕福な家庭に生まれたジョルジュ・スーラは、中学を卒業後2年ほど私立のデッサン学校に学んだ後、官立の美術学校に入りました。アングルの弟子アンリ・レーマンの教室に入り、古典的な名作を熱心に模写したり、伝統的な素描や構図法を学びました。いっぽう、色彩理論、視覚混合の原理、色彩配合に関する研究を続けました。

1881年ころから、両親の住まいの近くにアトリエを借り、粗い木炭紙の目を利用して、純黒のコンテ(クレヨンの一種)を使った白黒のコントラストやぼかしによる独自のデッサンに取り組みはじめました。ドラクロアの色彩技法を研究して、印象派の人たちもすでに取り組んでいた補色の原理も究明しました。

さらに、すでにピサロらが部分的に使っていた点描の技法をいっそう徹底させ、たくさんの油絵やデッサンの習作を試みた後、1884年に取り組みはじめたのが大作『グランド・ジャット島の日曜日の午後』でした。たて2m・横3mのカンバスの上に、さまざまな色の点をある個所では多く、あるところでは少なく置くことで、少し離れて見れば、眼にはさまざまなニュアンスのある複雑な色彩に見える方法に取り組みました。このやりかたは、絵の具を混ぜ合わせ場合より、いっそう純粋で美しく澄んだ色彩ができるわけで、スーラは科学的な厳密さで組織的に、芸術的な感覚で取り組んだのです。

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2年間にわたる精神の集中と、努力が実を結んで、スーラはこの絵を1886年に完成させ、5月の印象画展に出品したところ、同展の呼び物になり、評論家たちは印象派絵画を前進させた「新印象派」と絶賛。いちやくスーラは、パリ美術界の話題の中心となりました。

スーラのアトリエには、ゴッホ やゴーガン、ドガやロートレックらもやってきました。自尊心は強いものの、極端にはにかみやで、人にあうことがあまり好きではなかったスーラでしたが、絵の話になると別で、夜遅くまで話を続けたといわれています。こうして、スーラはこつこつと、規則正しい制作の日々を送り、夏には北部ノルマンディ海岸や、セーヌ河口のオンフルールなどに出かけ、『ポンタンベサンの港』『グランキャンの舟』『オンフルールの夕暮れ』などを描きました。やがて、照明に照らし出された夜の世界にも眼をむけるようになり、『パレード』『シャユ踊り』『サーカス』などを遺しています。

1891年スーラは、風邪をこじらせ、ジフテリアを併発してあっけなく亡くなってしまいました。31歳の若さでした。死後友人たちは、スーラに奥さんがいたばかりか、子どもまでいたことを知って驚いたそうです。スーラの画暦は12年と短く、しかも手のかかる点描を勤勉に制作したため、完成作品は多くはありません。しかし、どの作品も実に完成度の高いものばかりで、当時たくさんの画家が点描に挑戦しましたが、この手法でスーラを越える者は現われませんでした。


「12月2日にあった主なできごと」

1547年 コルテス死去…メキシコに高い文明を誇ったアステカ帝国を滅ぼした コルテス が亡くなりました。

1804年 ナポレオンの戴冠式…パリのノートルダム寺院において、ナポレオン が皇帝となる戴冠式が行なわれました。ナポレオンは、自らの手で王冠を頭上に置き、王妃の頭上にも置きました。王冠は、法王から授かれるものではなく、自分の手で獲得したものであることを強調したものでした。この華やかな模様は、ルーブル美術館とベルサイユ宮殿にあるダビッドの名画に描かれています。

1823年 モンロー宣言…アメリカ合衆国の第5代大統領ジェームズ・モンローが議会で、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱した日です。この提唱は「モンロー宣言」とよばれ、アメリカ外交の基本方針となりました。

1929年 北京原人の頭骨発見…北京郊外の周口店にある洞窟の中で、人類の頭蓋骨の化石が見つかり、北京原人と名づけられました。北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつですが、現生人類の祖先ではなく、何らかの理由で絶滅したようです。この北京原人遺跡は1987年にユネスコの世界遺産として登録されました。

投稿日:2010年12月02日(木) 06:08

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)