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エンリケ航海王子

今日11月12日は、ポルトガルの王子で、大航海時代の先駆者といわれるエンリケ航海王子が、1460年に亡くなった日です。

エンリケ(英語名ヘンリー)は、1394年ボルトガル王ジョアン1世の3男として、北部の都市オポルトに生まれました。1415年、最後の十字軍に参加して北アフリカの都市セウタを占領しました。その地で、北アフリカに入りこむアラビア人の活躍や、アフリカをめぐる海のことを知らされたエンリケは、限りない海への新しい航路をもとめる志をいだきはじめました。

そして1418年、華やかな官廷生活を捨てて、イベリア半島南西端のザグレス岬に移り住んで、世界初の「航海研究所」の館を建設しました。ここに、ヨーロッパじゅうのさまざまな分野の学者や航海者をまねき、地図制作、造船、地理学、数学、医学、天文学などの研究にとりかかったのです。

そのころまでは、暗黒の海として知られていたボジャドール岬の先の海は、海は煮えたぎっていて潮の流れは激しく、船は再びもどることができないといわれていたため、アフリカ西岸を南にたどる船乗りはありませんでした。

エンリケは自ら航海をすることはありませんでしたが、家来たちに命じてラコスの港から、次々に沿岸航路を延ばして、1420年にマディラ諸島、1432年にアゾレス諸島、カナリア諸島、ボハドル岬を、そして1434年、ついにボジャドール岬を越えたのです。さらに、1441年ブランコ岬、1445年ベルデ岬、1456年には内陸のセネガル川やガンビア川の探検に挑戦しています。

これらは、まさにいくつもの迷信を打ち消した、エンリケによる科学の勝利でした。王子の「航海研究所」では、悪魔の道具といわれた羅針盤を改良して6分儀としたのをはじめ、これまでの4角の帆を使っていた重い船を、操縦の楽な3角帆をとり入れたキャラベル船を使いました。そして「新しい船」は、風向きしだいの従来の航海から、あらゆる風向きでも前進できるようにしたのです。この発明は、自然を支配した大きな一歩でした。
  
エンリケの死後もアフリカ西岸の探検は続き、1488年にディアスはアフリカ南岸の喜望峰に到達、1498年には バスコ・ダ・ガマ が喜望峰を回ってインド西岸のカリカットに到達しました。そして、1510年にインド西岸のゴアを占領し、この地に総督府をおいて、翌年にはマレー半島西南部のマラッカ(現・マレーシア「マラッカひとり旅」参照)を占領しました。
  
ポルトガルはこうして「インド航路の開拓者」「海の覇者」となって、南米のブラジルからアジアまで広がる大帝国をつくりあげました。日本にも1543年鉄砲を伝え、1549年にはザビエルがマラッカを経由してキリスト教を伝えたのをはじめ、宣教師たちはいわゆる「南蛮文化」を伝えたことは特記しなくてはなりません。

こうして、エンリケ航海王子の「新しい航路開拓」の志は、1世紀以上も続いたポルトガルの繁栄をもたらしたのです。


「11月12日にあった主なできごと」

1840年 ロダン誕生…19世紀を代表する彫刻家で『考える人』『カレーの市民』『バルザック』などの名作を数多く残した ロダン が生まれました。

1866年 孫文誕生…「三民主義」 を唱え、国民党を組織して中国革命を主導、「国父」 と呼ばれている 孫文 が生まれました。
 
1871年 日本初の女子留学生… 岩倉具視を団長に、伊藤博文、木戸孝允ら欧米巡遊視察団48名がこの日横浜港を出港。そこに59名の留学生も同乗、その中に後に「女子英学塾」(現在の津田塾大学)を設立する6歳の津田梅子ら5名の女子留学生の姿がありました。
 
1898年 中浜万次郎死去…漂流の末アメリカ船にすくわれ、アメリカで教育を受け、アメリカ文化の紹介者として活躍した 中浜万次郎(ジョン万次郎) が、亡くなりました。
 
1948年 極東軍事裁判判決…太平洋戦争敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)による占領政治が開始されると、満州事変以来の政府と軍部指導者の戦争責任をさばく極東軍事裁判(東京裁判)が1946年から31か月にわたっておこなわれました。この日に最終判決が下され、東条英機 ら7名に死刑、被告25名全員が有罪とされました。

投稿日:2010年11月12日(金) 07:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)