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ケプラーの法則

今日11月15日は、惑星運動に関する3つの法則を発見し、近代天文学におおくの業績をのこしたドイツの天文学者でケプラーが、1630年に亡くなった日です。

ヨハネス・ケプラーは1571年、南ドイツのワイルという小さな町に生まれました。家が貧しかったので小学校にも行けず、13歳になってようやく奨学金で僧院付属の学校に入ることができました。とてもよい成績をあげて、大学にすすみ、牧師になる勉強をしました。そこでメストリンという教授に天文学の教えをうけたことから、天体に興味をいだき、天文学も学びました。

大学を卒業したケプラーは、教授としてオーストリアのグラーツ大学にまねかれました。そして、数学と天文学を教えます。教だんに立つかたわら、こつこつと天文学の研究をつづけ、その成果を『宇宙の神秘』という本にまとめました。コペルニクスの地動説にもとづいて書かれた論文です。

ケプラーは、1600年チェコスロバキアのプラハに、チコ・ブラーエを訪ねました。ブラーエは、世界最大の天文台で観測をつづけていた有名な学者です。しかも、皇帝の保護をうけて、高い地位にいました。ケプラーは助手となって、惑星の位置表を作る仕事を始めます。ところが1年後に、ブラーエが死んでしまい、ケプラーは任務をうけついで、それから10年あまり、惑星の観測にうちこみました。

皇帝の保護とは名ばかりで、パンさえ買えない苦しい生活がつづき、幼いときから病気がちだった身体はいっそう弱り、とうとう胸の病気におかされてしまいました。病気とまずしさのなかから1609年、ついに『新天文学』が発表されました。「惑星の軌道は、コペルニクスらが唱えていた正確な円ではなく、だ円である」(第1法則)という、新学説です。ここには、「惑星と太陽とを結ぶ線分が決まった単位時間に描く面積は一定である」という、第2法則も記されていました。

ケプラーは、1612年に生活できなくなったプラハを去り、オーストリアのリンツに移り、中学校の数学教師になりました。ここでも給料がおくれたり、もらえなかったりのみじめな暮らしぶりで、暦を作ったり、星占いをしてやっと暮らしをささえるありさまです。

どん底の生活にありながら、1619年に「惑星の公転周期の2乗は、太陽からの平均距離の3乗に比例する」という第3法則を発表して「ケプラーの法則」を完成させました。これはのちにニュートンの万有引力にもつながる、貴重な研究でした。

しかし1630年、収入のあてをたよって出た旅先で、人生の幕を静かにとじました。偉大な天文学者の一生は、病気と貧困の連続でした。


「11月15日にあった主なできごと」

1835年 カーネギー誕生…鋼鉄で利益をあげた大実業家で、公共図書館や大学、カーネギーホールの建設など公益事業に力をそそいだ社会事業家カーネギーが生まれました。

1867年 坂本龍馬暗殺される…勝海舟に学び、薩長同盟をを成立させ、徳川慶喜による大政奉還を実行させ、「船中八策」という明治新政府の構想を練りあげた土佐藩出身の志士坂本龍馬が、33歳の誕生日に亡くなりました。

投稿日:2010年11月15日(月) 07:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)