今日10月18日は、映画、レコード、電信機、電話機、電球、蓄電池など、生涯におよそ1300もの発明をしたアメリカの発明家・事業家のエジソンが、1931年に亡くなった日です。
トーマス・エジソンは、1847年アメリカのオハイオ州ミランに生まれました。父親は屋根板を作る工場を経営し、母親は小学校教師の経験のある教養人で、トーマスはふたりの7番目の子でした。
並はずれて好奇心の旺盛な子どもだったトーマスは、「なぜ? どうして?」を連発、しかもいいかげんな答えでは納得しません。「おじさん、どうして船は水に浮かぶの?」「水に浮かぶから船っていうんだ」「水に浮かばなかったら船じゃないの? おじさんは浮かぶ?」「泳げばな」「泳がなかったら?」「沈むよ」「どうして沈むの?」──まわりの大人たちは、とても困ってしまいました。
そのうち、ちょっとでも目を離すと何か冒険をはじめ、小川に橋をかけようとしては水に落ちる、倉庫に流れこむ小麦に流されて死にそうになる、なぜ火は燃えるのかを確かめるために納屋に火をつけるなど、何とも手のかかる子どもでした。しかし、このすさまじい探究心が、たびかさなる失敗にもめげない精神力の強さを育んで、「発明王」といわれるおびただしい発明を生み出す原動力になったにちがいありません。
7歳の時家族はミシガン州のポート・ヒューロンへ引越しをしました。この新天地で、エジソンは地元の小学校に入学しました。ところがわずか3か月で退学せざるをえませんでした。 「1たす1は、なぜ2になるの。ふたつのコップに入った水を別のコップに入れたら、水はひとつのコップに入るよ。1たす1は1じゃないの?」先生の教える内容に、疑問に思ったことは「なぜ?」「どうして?」と質問しつづけるエジソンに、先生も同級生も低能児あつかいをしたためでした。
周囲の人たちから嘲笑されるエジソンでしたが、母親だけは息子を見捨てることなく、温かく見守り続けました。エジソンが不思議に思うことは何でも2人で話し合い、考えることを学び、息子の想像力を伸ばしました。こうして、母と子の楽しい学校がはじまったのでした。
エジソンは、読書の面白さをみつけました。9歳のころには、もうギボンの『ローマ盛衰史』、ヒュームの『英国史』などから『理科事典』などを読みこなし、11歳のときには ニュートン の『プリンキア』に目を通すほどでした。息子の進歩をに喜んだ父親は、本を1冊よむごとに賞金を出したといいます。これは、生涯に1万冊以上を読みこなしたという、エジソンの読書好きの出発点となったようです。
特にエジソンの興味をひいたのは、科学史や技術史でした。ガリレオ がピサの斜塔で行なったという物体落下の実験は、心をうった一つでした。自然の世界では、100の理論よりも1つの実験がまさることを知り、読書で得た知識を実験に移していったのです。理解のある両親に守られ、自宅に実験室を作ってはいろいろな「研究」を開始します。そして12歳の時に、鉄道会社と契約、汽車の中の1室を借りて、鉄道車内新聞を発行しはじめました……。
エジソンの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第14巻「エジソン」をぜひご覧ください。
エジソンが発明して特許をとったものが1300、およそ20日に1つの割合です。さらにすごいのは、遺されたノートに、30万にものぼる研究テーマが書き記されていたことです。これほどの発明家でありながら「発明のひみつの表面をひっかいたにすぎない」のだそうです。終生の信条といわれる「天才とは99%の汗と1%のひらめきである」は、まことにエジソンの生きざまを表現している言葉といってよいでしょう。
「10月18日にあった主なできごと」
1866年 シーボルト死去…江戸後期に長崎のオランダ商館つき医師として来日したシーボルトが亡くなりました。シーボルトは、すぐれた西洋医学を広めたものの、1829年に帰国の際、禁じられたた日本地図などを持ち去ろうとしたことで、江戸幕府から国外追放を申し渡されました。(シーボルト事件)
1881年 日本初の政党…国会開設をを求めていた自由民権派は、板垣退助を党首に選び、日本初の全国組織による政党「自由党」が誕生しました。
1889年 大隈重信重傷…外務大臣として江戸幕府が結んだ外国との不平等な条約の改正交渉に乗り出していた 大隈重信 に対し、一気に対等な条約になることを信じていた人びとの怒りを買い、男に爆弾を投げつけられて、右足を失ってしまいました。