今日10月15日は、『幸福の王子』『星の子』などの児童文学、戯曲『サロメ』、小説『ドリアン・グレーの肖像』など多彩な文筆活動を行なったイギリスの作家 ワイルドが、1856年に生まれた日です。
『幸福の王子』のあらすじは、次の通りです。
ある町に幸福の王子の像が立っていました。全身は金ぱくにつつまれ、両目には青いサファイア、剣のつかには真っ赤なルビーが輝いていました。美しい王子の像は、町の人たちの誇りでした。
ある夜、暖かい国へ旅に出ようとしていた一羽のツバメが寝る場所をさがし、王子の足元におりました。すると、突然上からしずくが降ってきました。空には星がでて、雲ひとつないのに変だなと見上げると、王子の眼は涙であふれていました。町に暮らす不幸な人びとの姿に王子の胸は悲しみでいっぱいだったのです。王子は、自分の宝石をあげてきて欲しいとツバメに頼みます。ツバメはいわれた通りルビーを病気の子どものいる貧しい母親に、目のサファイアを飢えた若い劇作家に、もう一つのサファイアを幼いマッチ売りの少女に持っていきました。ツバメは町を飛びまわり、目の見えなくなった王子にいろいろな話をして聞かせます。王子はツバメの話を聞き、まだまだいるたくさんの不幸な人々に、自分の体の金ぱくをはがして分け与えて欲しいと頼むのでした。
やがて寒い冬が訪れ、王子はみすぼらしい姿になり、南の国へ渡りそこねたツバメも弱っていきます。死をさとったツバメは最後の力を振り絞って飛び上がり王子にキスをして足元で力つきました。その瞬間、王子の心臓は音を立て二つに割れてしまいます。王子の像は心ない人たちによってひきおろされ、溶鉱炉で溶かされました。でも、王子の心臓だけは溶けず、ツバメの死がいといっしょにゴミの中に捨てられました。
そんな下界の様子を見ていた神様が、天使のひとりに「この町で最も尊いものを二つ持ってきなさい」と命じました。天使は捨てられた王子の心臓と死んだツバメを持って帰りました。神様は天使の正しい行為をほめたたえたのでした……。
オスカー・ワイルドは、アイルランドのダブリンに生まれました。父は医者、母は作家でした。イギリスの名門オクスフォード大学に学び、在学中から詩の才能を発揮して長詩『ラベェンナ』を刊行、大学を首席で卒業しました。
卒業後まもなくロンドンの社交界に出て「芸術のための芸術」論をとなえ、真実や道徳ではなく美だけが最も価値があるとする耽美(たんび)主義運動をはじめました。ひまわりの花を胸に飾ってロンドンの町を歩くなど、風変わりな服装や生活態度に注目を集めました。そして、耽美思想に基づく作品の数々は世界中に影響を及ぼし、日本でも森鴎外、夏目漱石、芥川龍之介、谷崎潤一郎らに影響を与えています。しかし、亡くなるまでの晩年は浮き沈みが多く、1900年パリでみじめな最期を終えたのでした。
なお、いずみ書房のホームページで公開しているオンラインブック「せかい童話図書館」(40巻)では、『しあわせのおうじ』と『ほしのこ』の2点を取り上げています。また、「レディバード100点セット」には『幸福の王子他』があり、2点以外に『若い王様』の日本語訳を収録しています。オンライン図書館「青空文庫」では、『幸福の王子』『わがままな巨人』(共に結城浩訳)を読むことができます。
「10月15日にあった主なできごと」
1564年 ベサリウス死去…16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれる ベサリウス が亡くなりました。
1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく、ユリウス暦は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されているグレゴリオ暦で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。
1929年 官吏給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。