今日10月14日は、江戸幕府の第15代将軍徳川慶喜が、1867年明治天皇に、統治権を返上することを申し出た日です。
江戸幕府の大老・井伊直弼が、1860年3月におこった「桜田門外の変」で暗殺されると、これまで彦根・紀伊グループに押されていた、薩摩・越前・水戸など「公武合体派」が勢力を盛り返してきました。「公武合体」とは天皇をかつぎだして幕府の実権を大藩の手ににぎろうとする考えのことです。
そして、1861年から62年にかけて、孝明天皇の妹である和宮を、14代将軍家茂の夫人として、のちに15代将軍となる 一橋慶喜 を後見人、越前藩の松平春嶽(慶永) が幕府の総裁となって、徳川家康 以来の幕府のしくみを変えていこうとしました。しかし、かえって天皇を中心に開国反対をとなえる尊王攘夷派に利用され、将軍家茂を京都へ上洛をさせるなど、幕府が朝廷の下位にあることが目に見えるようになっていきました。
松平春嶽に請われて越前藩の改革を行った横井小楠や 勝海舟 ら開明的な幕臣などは、早くから政権を朝廷に返上して、政体を変革しようとする「大政奉還論」が提唱されてはいましたが、現実的な政策となることはありませんでした。
1866年、不穏な動きをみせた長州藩に対し、幕府は2回目となる長州征討の軍を派遣しました。しかし、直前に長州と同盟を結んでいた薩摩は動きません。幕府軍は、薩摩を経由してイギリスの援助を受けていた長州に一方的に敗れてしまいました。そのさなかに家茂が病死したこともあり、ほうほうのていで逃げ帰りました。長州一国に敗退した幕府の権威は低下の一方となり、家康の再来といわれる徳川慶喜が第15代将軍となったものの、時期は遅すぎました。
独自の考えで幕府改革を行おうとしていた薩摩藩の島津久光らは、慶喜と衝突し、長州藩と結んだ薩長同盟をもとに、武力による倒幕運動を推し進めていきました。
このような状況の中で、土佐藩の後藤象二郎は、坂本龍馬 から大政奉還論を聞いて感銘を受けました。土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張し、これに薩摩藩も同意して、1867年6月に「薩土盟約」を締結しました。この盟約は、慶喜に大政奉還を迫り、もし拒否された場合には武力によって政変を起こすというものでした。後藤はすぐに帰国して土佐藩兵を引率する予定でしたが、武力を拒否する藩主山内容堂(豊信)の反対にあい、結局9月には薩土盟約は解消してしまいました。
あきらめきれない後藤は、藩主を説得し、10月3日に土佐藩単独で大政奉還の建白書を将軍慶喜に提出、これを受けて慶喜は、京都・二条城に40藩の重臣を招集し「大政奉還」を天皇に申し出たのでした。そして、翌10月15日に受け入れられ、1603年から265年間続いた江戸幕府に幕が下ろされました。
「10月14日にあった主なできごと」
1872年 日本初の鉄道開通…東京・新橋と横浜の間29kmに、わが国初の鉄道が開通しました。この日(旧暦9月12日=新暦10月14日)を記念して国鉄(今のJR)は、1922年から「鉄道記念日」として制定しました。1992年、運輸省(今の国土交通省)は「鉄道の日」と改め、私鉄も含め、全国各地で鉄道に関する行事を行っています。