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橋本左内らの処刑

今日10月7日は、江戸時代末期の大老井伊直弼による「安政の大獄」により、越前藩(福井)の志士 橋本左内と儒学者 頼三樹三郎(頼山陽 の3男)が、1859年に処刑された日です。

黒船を率いたペリー来航の翌年の1854年、徳川幕府は「日米和親条約」を結んで、下田と箱館(現・函館)の2港を開き、アメリカに対し燃料と食糧補給を許可したことで、215年間つづいた鎖国が終わりました。

そして4年後の1858年、アメリカ総領事のハリスは、日本との貿易を幕府に強く要求しました。徳川幕府の大老になったばかりの井伊直弼は、周囲の反対論を押さえて「日米修好通商条約」を結びました。この条約により、箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港が貿易港として開港されましたが、アメリカの治外法権と領事裁判権を認め、日本に関税自主権のない不平等なものでした。

直弼が、朝廷の認可を得ないままに条約を締結したことで、開国反対をさけぶ大名や学者たちはいっせいに反発しました。これに対し、反対派の人々をことごとく処罰したのが1859年の「安政の大獄」といわれる水戸の一橋派や、尊王攘夷派への弾圧でした。14代将軍に家茂擁立をすすめる直弼に対し、一橋慶喜(後の15代将軍)を推す勢力への反発も含まれていました。

弾圧は、水戸藩主斉昭の禁錮、一橋慶喜の隠居、橋本左内の主君である松平春嶽、土佐藩主山内容堂らの謹慎、反幕府公卿の辞官や謹慎、吉田松陰、橋本左内、頼三樹木三郎らたくさんの志士を投獄するなど、連座した人たちは100人以上にのぼりました。そんな直弼のやり方に反発し、藩兵5000人を率いて上洛しようとしていた薩摩藩主の島津斉彬が、出兵直前の7月に鹿児島で急死したことも直弼の行動を徹底させたのでしょう。

8月末からはじまった志士たちへの処刑はこの日、橋本左内、頼三樹三郎を斬首刑とし、10月27日には「松下村塾」で高杉晋作木戸孝允らを育てた吉田松陰が大弾圧最後の犠牲者となったのでした。

こうした直弼の独断的なやり方に不満やうらみを持つ者は多く、水戸藩を脱藩した浪士らが、大雪の降る翌年の3月「桜田門外の変」をおこして直弼を暗殺したのです。


「10月7日にあった主なできごと」

1571年 レパントの海戦…ギリシアのコリント湾口の入口レパント沖で、オスマン帝国海軍とローマ教皇・スペイン・ヴェネツィア連合海軍(ヨーロッパ連合軍)との間で海戦がおこりました。オスマントルコ軍はヨーロッパ連合軍に大敗し、オスマン帝国弱体化のきっかけになりました。

1674年 狩野探幽死去…江戸幕府代々の御用絵師として、日本画を代表する狩野派の栄える基礎を築いた狩野探幽が亡くなりました。

1849年 ポー死去…世界初のミステリー『モルグ街の殺人事件』などを著し、「ミステリーの祖」といわれるアメリカの作家・詩人のエドガー・アラン・ポーが亡くなりました。

1949年 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立…西ドイツ成立後1か月もたたないこの日、東ドイツが誕生。ソ連の助けを借りて、社会主義国家として第1歩をふみだしました。なお、41年後の1990年10月3日に両ドイツは統一を回復。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4か国は、ドイツに対してもっていたさまざまな権利を放棄して、統一ドイツは完全な主権をもった国家として国際社会に復帰しました。

投稿日:2010年10月07日(木) 07:35

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)