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幕末の名君・島津斉彬

今日7月16日は、江戸時代後期の薩摩藩の藩主で、名君と讃えられた島津斉彬(しまづ なりあきら)が、1858年に亡くなった日です。

斉彬は1809年、藩主・島津斉興(なりおき)の長男として江戸薩摩藩邸で生まれました。母は「賢夫人」として知られた女性で、乳母をつけず、自ら斉彬を養育しました。幼い頃から利発で、15、6歳の頃には、文武両道で諸藩にその名が伝わるほどでした。特に蘭学に通じていて西洋文明の研究に関しては、当代一といわれるほどでした。

ところが、これが周囲の目に「蘭学かぶれ」と映ったことが皮肉にも薩摩藩を2分する抗争の原因になったといわれています。斉彬が藩主になれば、公金を湯水のごとく費やし藩財政の困窮に拍車をかけかねないと、特に藩上層部に心配され、斉興は斉彬が40歳を過ぎてもまだ家督を譲りませんでした。そして、斉彬の異母弟に当たる島津久光を擁立しようとしたのです。

そんな薩摩藩の内紛に対し、斉彬と親しい幕府老中の阿部正弘、越前福井の松平春嶽らが事態の収拾に努め、1851年2月に斉興が隠居し、ようやく斉彬が第11代藩主に就任しました。

藩主に就任するや斉彬は、洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設など藩の富国強兵に努めました。土佐の漂流民でアメリカから帰国した 中浜万次郎(ジョン万次郎) を保護し、西洋式軍艦を建造して徳川幕府に献上したほか、下士階級出身の 西郷隆盛大久保利通 を登用して重要な仕事にあたらせました。

斉彬は、松平春嶽以外にも土佐藩の山内容堂や水戸藩の徳川斉昭らと藩主就任以前から交流をもっていました。斉彬は彼らとともに幕政にも積極的に口をはさみ、老中・阿部正弘に幕政改革を訴えていました。特に斉彬は、黒船来航以来の難局を打開するには公武合体するほかないと主張しました。

斉彬は1858年、老中・阿部正弘の死後に大老に就いた 井伊直弼 と将軍継嗣問題で真っ向から対立しました。第13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子がなかったため、徳川斉昭らとともに次期将軍に 一橋慶喜(徳川慶喜) を推し、養女篤姫を公家である近衛家の養女とした上で家定の正室として嫁がせました。

いっぽう、井伊直弼は紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を次期将軍に推しました。井伊は大老の地位を利用して強権を発動し、反対派を弾圧する「安政の大獄」を開始。さらに、慶福を第14代将軍・徳川家茂(いえもち)としたため、斉彬らは将軍継嗣問題で敗れたのでした。

斉彬はこれに対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画しましたが、鹿児島城下で出兵準備の最中に、49歳で急死してしまいました。


「7月16日にあった主なできごと」

622年 回教暦元年…イスラム教の開祖 ムハンマド(マホメット) が、メッカからメディナに移って布教を開始。この年を回教暦元年としました。

733年 山上憶良死去…貧しい人たちへの気遣いや家族思いの万葉歌人・山上憶良 が亡くなったといわれます。

1260年 立正安国論…僧 日蓮 はこの日、鎌倉幕府の前執権北条時頼に「立正安国論」を献上し、相次ぐ地震や飢饉、疫病などの災害の原因は、阿弥陀如来だけを信じ念仏をとなえればよいという法然を激しく非難、正法である法華経を信じなければ国内に反乱がおこり外国から侵略を受けると予言しました。

1872年 アムンゼン誕生…ノルウェーの極地探検家で、1911年南極点に初めて到達した アムンゼン が生まれました。

1945年 世界初の原爆実験…アメリカのニューメキシコ州の砂漠で、原爆実験がおこなわれました。この成功により、広島に8月6日、9日に長崎へ原子爆弾が落とされました。

投稿日:2010年07月16日(金) 08:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)