今日10月8日は、明治・大正・昭和期に活躍した歌人の吉井勇が、1886年に生まれた日です。若山牧水ら、旅と酒と女を愛した文人はたくさんいますが、吉井もまたその一人に数えられる異才の歌人です。
東京芝高輪に生まれた吉井は、中学卒業後まもなく歌作に励み、早稲田大学に入学しました。大学在学中に、友人となった北原白秋らと1905年に与謝野鉄幹が主宰する「新詩社」の同人となって「明星」に次々と歌を発表しました。まもなく同大学を中退して、耽美(たんび)派の拠点となる「パンの会」を白秋らと結成し、1909年には、白秋、石川啄木らとともに森鴎外が監修となる「スバル」を創刊しました。
そして1910年、勇の文学的出発となる第一歌集『酒(さか)ほがひ』を発表しました。有名な「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水のながるる」など、青春時代の夢や恋愛や酒に心地よく酔いしれる心情を、独特の言葉で歌い上げたことで一躍名を高め、文壇の地歩を固めました。
以後、歌集『昨日まで』『祇園歌集』などを発表、小説、戯曲なども精力的に手がけましたが、やがて文壇から遠ざかり、1936年の離婚後は、失意のうちに放浪に近い歌行脚の旅を重ね、1960年に亡くなりました。
吉井勇の数々の歌のなかで、特に注目されるのは、過去の著名人や友人らの人名をおりこんでその人柄、印象などを多様に詠みこんだことです。以下、いくつか掲げてみますので、参考にしてください。
「好色の名にこそ負へれしかはあれ西鶴の書く文字のするどさ」(井原西鶴)
「つくづくと良寛の字を見てあれば風のごとしも水のごとしも」(良寛)
「人麻呂は大き歌びとあめつちに心足るまでうたひつらむか」(柿本人麻呂)
「いにしへも西行といふ法師ゐてわが世はかなみ旅に出でにき」(西行)
「襖より蕪村の墨のにほひしてこの部屋ぬちのしづかなるかも」(与謝蕪村)
「句を讀みて泣かむか世をば怒らむか一茶はまこと寒く生きたり」(小林一茶)
「近松の世話浄瑠璃のめでたさを相見るごとに友説きやまず」(近松門左衛門)
「空海をたのみまゐらす心もてはるばる土佐の國へ来にけり」(空海)
「いつとなくはかなきことを書きゐたる法然の文讀みしものから」(法然)
「いまもなほ吉祥山の奥ふかく道元禅師生きておはせる」(道元)
「佐渡はよし日蓮の世のごとくにも檀那おはせる河原田の里」(日蓮)
「一葉の書きし明治の世を思へばゆゑわかなくに眼潤み来」(樋口一葉)
「啄木と何かを論じたる後のかの寂しさを旅にもとむる」(石川啄木)
「白秋とともに泊りし天草の大江の宿は伴天連の宿」(北原白秋)
「10月8日にあった主なできごと」
1856年 アロー号事件…中国の広州湾外で、清の役人がイギリス船アロー号を立ち入り検査し、船員12名を海賊容疑で逮捕しました。イギリスは清に厳重に抗議、宣教師を殺害されたとするフランスと連合して、1857年から1860年にかけて、清と英仏連合軍とが戦う「アロー戦争」となりました。最終的に北京条約で終結、清の半植民地化が決定的なものとなりました。