今日10月12日は、各地を旅しながら紀行文『野ざらし紀行』『笈(おい)の小文』『おくのほそ道』などを遺し、「俳句」を文学の域に高めた松尾芭蕉(まつお ばしょう)が、1694年に亡くなった日です。
いずみ書房が刊行している、歴史上偉大な生涯をとげた約100名の伝記をとりあげた「せかい伝記図書館」全36巻の25巻目に収録している「松尾芭蕉」(全文はホームページに公開中の「オンライン図書館」参照) の書き出しは、次のようになっています。
「五・七・五の句に、さらに七・七の句をつけ、それを交互に続けていく歌を、俳諧のなかでも、とくに連歌といいます。おもしろみをねらい、何人かの人がいっしょになって、詠み連ねていくものです。そして、そのいちばん初めの五・七・五の句を発句とよび、やがて、それだけが独立して、俳句となりました。松尾芭蕉は、それまで遊びのようだった俳諧を、俳句によって、すばらしい文学にまで高める基礎をつくった俳人です……」
1644年、伊賀国上野(今の三重県上野市)に生まれた芭蕉(本名・松尾宗房)は、幼くして藩主のあと継ぎ・藤堂良忠の学友になりました。良忠が北村季吟に師事して俳諧の道に入ったことから、芭蕉も俳諧に親しむようになりました。
ところが1666年、良忠の急死により無常感にせめられた芭蕉は、京都に出て6年間学問に励みました。そして1672年に俳諧師として身をたてようと江戸に出ました。しかし、生活は苦しく、小役人になったり、神田上水の工事に携わったり、参禅したりの9年間は、暮らしへの不安と青春の悩みの時代でした。俳句もまた、ひと飛びに開花したのではなく、長く貞門派や談林派といった中身のない俳諧に染まっている時でもありました。
1681年、句作に新風を求めて深川に住居を移しました。門人の一人が庭に芭蕉を植えたところ、大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付け「芭蕉」を号としました。それは、苦しい体験に根ざした厳しい世界に取り組む決意の瞬間でもありました。
1684年に発表した『野ざらし紀行』の体当たりの旅から、亡くなるまでの10年間は、そのほとんどを旅を中心に、大自然の生命の奥底にふれ、自己の生命を純粋にむきあわせながら、独自の文学を深めていったのです。
『鹿島紀行』『笈の小文』『更科紀行』、さらに1689年3月、弟子の河合曾良を伴って深川の庵を立ち、『おくのほそ道』の旅に出ました。全行程約2400km、日数約150日間、東北・北陸をめぐって大垣に至る大旅行でした。『おくのほそ道』は、今や古典的紀行作品の代表と評価されています。「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」「閑さや岩にしみ入る蝉の声」「五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川」「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ」などの句は、この旅で詠まれたものです。
芭蕉の最期も旅の途中でした。長崎など南方の明るい天地にあこがれて、大坂の旅宿に宿泊中、51歳で亡くなりました。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」が辞世の句といわれています。
「10月12日にあった主なできごと」
1492年 コロンブスのアメリカ発見…スペイン女王イサベラの援助により、西回りでインドをめざしたコロンブス隊が、71日目のこの日、中央アメリカにあるバハマ諸島にある島(今のサンサルバトル島)に到着しました。
1769年 青木昆陽死去…江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者 青木昆陽 が亡くなりました。
1960年 浅沼稲次郎暗殺…日本社会党委員長の浅沼稲次郎は、日比谷公会堂で行なわれていた安保闘争後初の選挙にむけての演説会の席上、17歳の右翼少年に暗殺されました。