今日10月5日は、「七転び八起」のことわざでおなじみのダルマさんのモデルとなった中国禅宗の開祖・達磨(だるま)が、528年に亡くなったとされる日です。
達磨は、5世紀から6世紀にかけての人だという以外、生まれた年も死んだ年もはっきりしません。確かな記録がないので、どのような人生を送ったのかほとんど不明です。禅を広めるために、中国へやってきた達磨は、遠いインドの人でした。禅とは、仏教の教えの1つで、ひたすら座りつづけ、心を静めるというきびしい修行をします。
伝説によると達磨は、ある王国の第3王子として生まれ、少年時代から、えらいお坊さまについて仏教を学びました。数十年もの修行をつづけたのち、インドじゅうをまわって教えを説きますが、だれ一人として耳をかたむける人はいません。
達磨は、新しい土地を求めて中国へわたりました。梁の武帝は、そのころ仏教を手厚く保護し、自らも熱心に道を求めていました。達磨を招いて、ほこらしげに話しました。「わたしは、寺をたくさん建て、お坊さまの生活のめんどうまで見ているのだから、たいそうなむくいがあるでしょう」
達磨は表情を少しも変えずに一言「何もない」と答えました。同じ仏教でもすでに中国に広まっていた教えと、達磨の禅とはまるでちがいます。武帝がつづけて「この世で最高の教えとはどんなものか」とたずねると、達磨は同じように一言「そんなものはない」とそっけない返事でした。武帝は、とうとう怒りだして「あなたは、いったい何者ですか」とさけびました。達磨は、いささかもたじろがず「知らない」と静かに答え、その場を去りました。
まだ禅が理解される時期ではないとさとった達磨は、魏の国へ行き、嵩山の少林寺にこもりました。長い座禅修行に入り、「面壁九年」とよばれる伝説を残します。壁にむかい9年間も座りつづけ、教えを受けようとする僧がたずねてきても、全然相手にしませんでした。
12月のある寒い日、慧可(えか)という若い僧がやってきました。いつものように達磨は返事もしません。慧可は夜どおし雪のふる庭に立ちつくし、朝をむかえました。雪にうずもれた慧可は、短刀をとりだして、いきなり自分のうでを切り落とし、片手でそのうでをさしだしました。達磨は、慧可の決意をみとめ、弟子にむかえました。そして禅のすべてを説きあかしたということです。達磨の生涯は、ほとんど明らかになっていませんが、150歳でこの世を去ったといういい伝えがあります。
インドに始まった禅は、やがて達磨によって中国に広められ、禅宗となって発展しました。
なお、日本での禅宗は、中国に渡って禅宗を学んだ 栄西と道元 がそれぞれ、1168年に「臨済宗」を、1223年 に「曹洞宗」を伝え、「日本臨済宗」「日本曹洞宗」を開きました。
「10月5日にあった主なできごと」
1274年 文永の役…元(今の中国)の皇帝フビライは日本を属国にしようと、2万人の軍隊と朝鮮(高麗)軍1万5千人を率いて対馬を占領後、博多に上陸しました。しかし、おりからの嵐にあって朝鮮へ引き上げました。1281年にも再上陸(弘安の役)を企てますが、このときも嵐にあって失敗。この2度にわたる元の襲来を「元寇(げんこう)」とよび、人々はこれを「神風が吹いた」と語りついできました。
1392年 南北朝が合一…北朝と南朝に分かれて対立していた朝廷でしたが、「明徳の和約」によって交互に天皇を出すことを約束、50年にわたる南北朝の争いを終えました。
1938年 河合栄治郎の著書発禁…自由主義者を自認する東大の経済学部の教授だった 河合栄治郎 の著書「ファッシズム批判」など4冊の著書が発売禁止となりました。