今日9月16日は、江戸時代後期の画家・洋学者で、著書『慎機論』で幕政批判をしたとして「蛮社の獄」に倒れた渡辺崋山(わたなべ かざん)が、1793年に生まれた日です。
渡辺崋山は、田原藩(愛知県)の江戸藩邸で、武士の長男として生まれました。11人もの家族がいる渡辺家はとても貧しく、幼い弟妹たちを奉公に出さなければならないほどでした。そのため崋山も、貧しさとたたかいながらも、朱子学や、陽明学などの学問に励みました。
絵の腕前は少年時代から優れていましたが、18歳のころに谷文晁(ぶんちょう)に入門してから大きく花開くこととなりました。朝早くから夜半すぎまで、灯籠の絵などの絵の内職をしながら、いっぽうで古画を写したり、読書にはげむのがその頃の日課でした。
そんな努力が実って、20代半ばには画家として著名となり、生活も苦労せずにすむようになりました。崋山は、人物、花、鳥などをよく描きましたが、のちには西洋画の遠近法をとり入れた山水図など、いきいきとした写実的な独自の画風をうみだしていきました。立体感のある肖像の傑作を多く遺しましたが、特に蘭学の師を描いた「鷹見泉石像」(東京国立博物館蔵)は、国宝になっています。
いっぽう崋山は、学問に励み、儒学(朱子学)、農学などを学び、父親のあとを受けて田原藩に仕えるうちに、しだいに重い役割を担うようになりました。そして、40歳のときには藩の家老に選ばれ、藩の繁栄に貢献しました。救民のための義倉「報民倉」を建設したために、天保の大飢饉では一人の餓死者を出さなかったのは、崋山の功績だといわれています。
また崋山は、儒学にあきたらず、高野長英ら洋学の同志と「尚志会」というグループを作って、政治、経済、国防などの研究にはげみました。1838年にイギリス船モリソン号がやってくるという風説をきいた崋山は『慎機論』を、長英は『夢物語』を書いて、外国船を打ち払うというやり方や鎖国を考えなおすべきだと説きました。彼らの活動こそ、封建体制の中にあって、ようやく近代的な国民意識の芽生えと生長を約束するものでしたが、幕政に対する批判ととられたのでしょう。
「尚志会」が、無人島への渡航を企てているという理由で、崋山や長英らは、1839年に捕らえられてしまいました。これが「蛮社の獄」という弾圧で、取調べの結果無実とわかったものの、崋山は、田原藩での蟄居を命ぜられてしまいました。藩主に災いの及ぶことをおそれた崋山は死を決意し、長男へ「餓死るとも二君に仕ふべからず」と遺書して1841年に切腹、49年の多彩な生涯を終えました。ペリーが率いる黒船来航の12年前のことでした。
なお、崋山の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第30巻 「渡辺崋山」をぜひご覧ください。
「9月16日にあった主なできごと」
1620年 メイフラワー号出帆…アメリカ建国のきっかけをつくった102人のピュリタン(清教徒)が、イギリスのプリマス港を出港。
1865年 小村寿太郎誕生…日英同盟、日韓併合の立役者であり、日露戦争が終結したポーツマス講和会議の全権大使を務めた外交官 小村寿太郎 が生まれました。
1877年 大森貝塚発掘開始…アメリカの動物学者 モース は、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘を開始しました。この発掘がきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。