今日9月17日は、明治・大正期に活躍した歌人の若山牧水が、1928年に亡くなった日です。
牧水といえば、西行 や 芭蕉 と並び称されるほど旅を愛した歌人でした。「白鳥は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよう」「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなん国ぞ今日も旅行く」などの歌は、今なお多くの人たちに愛唱されています。飲酒の量もはんぱなものでなく、晩年健康が衰えても1日一升酒を楽しんだようで、「白玉の歯にしみ通る秋の夜の酒は静かに飲むべかりけれ」と、詠んだのもうなずけます。
牧水は1885年、宮崎県坪谷村(現日向市)の医者の長男として生まれました。中学時代から短歌と俳句をはじめ、1904年に早稲田大学英文科入学、北原白秋 らと親交しながら、尾上柴舟のもとで短歌を学び、雑誌『新声』の歌壇に投稿するようになりました。学生時代に知り合った園田小枝子との情熱的な恋愛は有名で、この失恋が旅と酒を愛するきっかけとなったということです。
1908年、大学卒業後まもなく発表した処女歌集『海の声』、翌年の第2歌集『独り歌へる』はほとんど反響を呼びませんでしたが、1910年出版した第3歌集『別離』によって、前田夕暮とともに歌壇に「牧水・夕暮時代」を現出させ、歌人として生活できるようになりました。
1911年、友人の歌人太田水穂を頼って長野から上京していた若山喜志子と水穂宅で知り合い、翌年結婚、のちに歌人となる長男旅人(たびと)ら、2女1男をもうけました。1920年に沼津の自然を愛し、特に千本松原の景観に魅せられて、一家をあげて沼津に移住しました。
それからの牧水は、揮毫(きごう)旅行に出かけることが多くなりました。短冊などに歌を書くことで収入を得る旅は、性にあっていたのでしょう。旅は全国にわたり、生活の主な糧となりました。牧水の、平明で清澄、流麗な歌の数々はどこでも人気をよび、43年の生涯に7000首以上を詠み、全国にある歌碑は275を数えるそうです。そして、全国多数の新聞や雑誌にある歌壇の選者として広く後進を導き、優れた紀行文、随筆なども遺しています。
1927年牧水は、妻とともに朝鮮へ揮毫旅行に出発し、約2か月間にわたって珍島や金剛山などをめぐりましたが、体調を崩し帰国しました。翌年の死亡記事は次のように伝えています。「食事代わりの酒約100gを飲み、杯を置く間もなく昏睡に陥り一言の遺書もなく、門下生の捧げる末期の水ならぬ酒を唇にして永眠」──と。
「9月17日にあった主なできごと」
1867年 正岡子規誕生…俳誌「ホトトギス」や歌誌「アララギ」を創刊し、写生の重要性を説いた俳人・歌人・随筆家の 正岡子規 が生まれました。
1894年 黄海の海戦…日清戦争で、日本連合艦隊と清国の北洋艦隊とが鴨緑江沖の黄海で激突、清国海軍は大損害を受けて制海権を失いました。日本海軍が初めて経験する近代的装甲艦を実戦に投入した本格的な海戦として知られています。