今日6月17日は、アメリカの動物学者のモースが1877年に来日した日です。モースが、縄文時代の貝塚「大森貝塚」を発掘したことがきっかけとなって、日本に近代科学としての考古学がスタートしました。
1838年、アメリカの最東北部メイン州のポートランドに生まれたエドワード・モースは、学校の成績はかんばしくありませんでしたが、13歳ごろから採集しはじめた貝類の標本は、学者が見学にくるほど立派なものでした。その後も貝の研究に熱中し、1857年には新種のカタツムリを博物学協会誌に発表するほど、貝の研究家として注目されるようになりました。
高校に入ってからも入退学をくりかえすほど勉学には力が入らず、動物学者となるためには大学卒の肩書きが必要だといわれても意に介しません。そのうち、貝に関する弁舌さわやかな講演に人気が出て、その謝礼金で暮らしを立てるようになりました。
1867年、ピーボディという人の寄付を得て、3人の研究仲間といっしょに『ピーボディー科学アカデミー』(のちのピーボディ博物館)をマサチューセッツ州セーラムに開き、1870年まで軟体動物担当の学芸員を勤めました。こうして、大学卒の肩書きのないまま1871年にはボードイン大学教授を勤め、ハーバード大学の講師も兼ねるほど学者としての評価が高まって、アメリカ科学振興協会の幹事になるほどでした。
やがてモースは、腕足類の研究のためには、それが豊富に生息する日本行きを計画、1877年のこの日に横浜に到着したのでした。そして、横浜から新橋に向かう汽車の窓から、大森駅をすぎてまもなく線路左側に貝殻の層が露出している白っぽい丘を見つけ、それが古代の貝塚であると直感しました。
このモース到着の2か月前に東京大学が開設されていて、思いがけずモースは、東京大学動物学の教授になることを依頼されました。この幸運は、腕足類研究だけでなく、大森貝塚の発掘調査を行なう資金を保証されたことでもありました。
大森貝塚の発掘は9月から11月にかけて数回にわたって行なわれ、この貝塚が縄文時代後期の貝塚であることが判明しました。とくにモースの専門である貝の研究は詳細で、貝類の違いから年代の古さと環境の変化まで推定しています。
モースは、まもなく日本を去ってアメリカに帰国しますが、1882年に再来日して、半年ほど陶器と民俗資料の収集にあたりました。モースは、1880年からピーボディ博物館の館長を務めながら、日本に何度か訪れてさまざまな研究を重ね、現在の日本民俗学にとって重要な資料を遺しました。
モースは、1925年に亡くなるまで、終生日本と東京大学を愛しました。1923年に関東大震災で東大図書館が壊滅したことを知ると、自分の蔵書2500冊すべて寄贈することを遺言にし、実行されたのでした。
「6月17日にあった主なできごと」
1869年 版籍奉還…明治新政府は、藩の土地(版)と人民(籍)をこれまで治めていた藩から、天皇に返す「版籍奉還」を開始しました。
1972年 ウォーターゲート事件…ワシントンのウォーターゲートビルにあるアメリカ民主党本部に、盗聴器をしかけようとしていた5人組が逮捕されました。共和党のニクソン大統領が、次の大統領選に有利にするため、相手方の様子を知ろうとしたためとされ、1975年8月、ニクソンは大統領辞職に追いこまれました。