今日6月16日は、江戸時代後期に活躍した蝦夷地(北海道・樺太・千島など) 探検家の近藤重蔵が、1829年に亡くなった日です。
1771年に、江戸・駒込で与力(警察を司る役人)の家に生まれた重蔵は、幼いころから神童のほまれ高く、8歳で四書五経をそらんじ、17歳で私塾を開くほど学才がありました。
19歳で父にかわって与力を務め、23歳の時には湯島聖堂の学問の試験を受け、最優秀の成績で合格するほどでした。そして、長崎奉行手付出役、支払勘定方、関東郡代付出役と栄進していきました。
当時の蝦夷地は、北海道南部の松前地方以外は、道などもなく、どんな人が住み、どんなくらしをしているかなどほとんどわかっていませんでした。千島列島にはロシア人が入りこんでいること、このままではロシアの領地になってしまうことを知った重蔵は、27歳のとき、幕府に北方調査の意見書を提出しました。これがきっかけで、松前蝦夷地調査の出張を命ぜられ、開拓に従事し、貿易商人の高田屋嘉兵衛にクナシリからエトロフ間の航路を調査させるなど、実績をかさねました。
幕府普請役で探検家の最上徳内とともに、千島列島やエトロフ島を探検し、同地に「大日本恵土呂府」の木柱を立てたことは有名です。
こうして重蔵のみごとな働きぶりに、幕府はそののちも北海道から千島へつかわすこと12回にもおよびました。松前藩の欠点を指摘して、蝦夷地を幕府の直轄地にしたり、1807年には「札幌の都をおき、小樽に港を開いて交通の便をはかるべきだ」という意見書を提出するほど、先見性がありました。
1808年、江戸に帰国してからは「江戸城紅葉山文庫」の書物奉行となり、12年間書庫の整理をしながら、著作にもはげみました。特に辺境の地理を記した『辺要分界図考』、幕府の外国関係の資料を集めた『外蛮通書』など、新井白石 の著書と並んで評価されています。
しかし、晩年の重蔵は悲しいものでした。自信まんまんで豪気な性格が見とがめられたのか、大坂勤奉行に左遷されました。1826年には長男が町民を殺害したことで八丈島に流罪となり、これに連座して近江国大溝藩に預けの身となり、獄中で病死してしまいました。
「6月16日にあった主なできごと」
756年 楊貴妃死去…中国・唐の時代、玄宗皇帝の妃となりましたが、安禄山の反乱(安史の乱)を引き起こしたため「傾国の美女」と呼ばれる 楊貴妃 が亡くなりました。
1699年 河村瑞賢死去…江戸の大火事の際、木曾の材木を買い占めて巨富を得、事業家として成功した 河村瑞賢 が亡くなりました。
1924年 三民主義…現代中国の生みの親ともいわれる 孫文 は、民族・民権・民生主義を総合する「三民主義」の革命理論を、国民党の軍幹部を養成する学校の開校式で系統的な講演をし、孫文指導下の国民運動は最高潮に盛り上がりました。しかし、翌年3月「革命なおいまだ成功せず」の遺言を残し、60年の生涯を終えました。
1963年 女性初の宇宙旅行…ソ連(ロシア)の宇宙飛行士テレシコワは、ボストーク6号で地球を48周、70時間以上の宇宙飛行に成功しました。地上基地との通信「わたしはカモメ(ヤー・チャイカ)」は流行語になりました。