今日6月15日は、明治維新の100年近くも前に生まれながら、国学、儒学、蘭学、動・植物、天文、地理、測量など広い学問に通じ、明治以降の日本のすがたを明確に予想した学者 佐藤信淵(さとう のぶひろ)が、1769年に生まれた日です。
出羽国(秋田県)の佐藤家には、なん代もまえから、農業、産業、地理、博物学、医学などについての、とくべつの学問が伝わっていました。信淵が、この学問を受けついだのは、当然です。
少年時代の信淵は知識欲がたいへん強く、15歳で父を失うと、家に伝わる学問を、自分の力でまとめようと決心しました。そして、江戸へでて蘭学、動物学、植物学、天文学をはじめ、測量の技術や外国の歴史なども学び、さらに20歳になったころからは九州、四国、山陰をまわって、それまで学んできたことを自分の目でたしかめながら、さらに知識を深めました。
江戸へもどった信淵は、医者として生活をたてるかたわら、国学者の平田篤胤から、日本のむかしからの文化を重んじる学問を学び、自分の考えを理想的な国家の建設という方向でまとめていきました。
信淵が頭にえがいた政治のすがたは、江戸幕府のように大老、老中、若年寄、目付、奉行などの人が中心になって組織されたものではなく、もっと近代的なものでした。
たとえば、政府には、農事府、開物府、製造府、融通府、陸軍府、水軍府および大学校をもうけ、地方にも、政治や教育をつかさどる役所をおいて、りっぱな統一国家として国をおさめていくことを考えました。これは、幕府の下に、たくさんの藩がばらばらに独立していた江戸時代のすがたにくらべると、たいへん進んだものでした。
信淵は、とくに、農業を中心にして国の繁栄をはかっていくことのたいせつさを、強く訴えましたが、これも、日本の国のすがたによくあったものでした。
しかし、このようなことを、幕府や藩にまねかれて説いても、ほとんど受け入れられませんでした。封建時代の武士たちにとっては信淵の考えが新しすぎたうえに、すぐ実行できないことが多かったからです。けっきょく信淵は、8000巻というぼう大な著作を残しただけで1850年に81歳で亡くなりました。
「佐藤家には、ほんとうに、なん代も伝わった学問があったのだろうか。信淵には大きなことを口にするくせがあったのだ」
こんな批判もあります。でも、新しい時代を見通したすぐれた学者であったことはまちがいなく、明治以後に多くの学者の注目を受け、その多くが出版されました。
「6月15日にあった主なできごと」
774年 空海誕生…平安時代に中国から真言密教をもたらして真言宗を開き、高野山に金剛峰寺を建てた 空海 が、生まれました。空海は弘法大師の名で親しまれています。
1215年 マグナカルタ成立…イギリス憲法の聖書ともいわれる「マグナカルタ」(大憲章)に、横暴だったジョン王が署名し、王も法に従うという原則が定められ、イギリス立憲政治の出発点となりました。
1242年 北条泰時死去…鎌倉時代の3代目の執権となり、、武士の初めての法律『御成敗式目』(貞永式目)をこしらえ、16代続いた執権政治の基礎をきずいた 北条泰時 が亡くなりました。