今日9月15日は、平安時代後期の天台宗の高僧でありながら絵画にも精通して、鳥獣戯画の作者といわれる鳥羽僧正(とばそうじょう)が、1140年に亡くなった日です。
すもうをとって、カエルに投げとばされているウサギ、衣をまとい、和尚になりすまして、ごちそうをいただいているサル。このほか、馬、牛、キツネ、イノシシ、ニワトリなど、さまざまな動物たちを、まるで人間のようにえがいた『鳥獣戯画』。
鳥羽僧正は、このめずらしい絵をかいたといわれている僧侶です。
僧正は1053年、朝廷につかえる公家の家に生まれ、幼いうちに出家しました。そして、天台宗の園城寺で修行をつんで、26歳のとき法橋の位を受けました。年老いてからは、さらに法印、大僧正の位にまでのぼり、85歳のときには天台宗をとりしまる延暦寺の座主にまでなりました。僧としてのほんとうの名は覚猷(かくゆう)といいましたが、京都の鳥羽離宮内の寺に長く住んだことがあることから、鳥羽僧正とよばれるようになったのです。
僧正は、僧として高い知識をそなえていただけではなく、仏像画をかくことにも優れていました。また、のちに鳥羽絵として流行するようになった、世の中を皮肉ったこっけいな絵をかくことも、じょうずでした。
あるとき、米俵が風に吹かれて飛んでいる絵をかきました。すると、上皇から、絵の意味をたずねられました。重い米俵が飛んでいるのが不思議だったからです。僧正は答えました。
「寺にとどけられる俵に、ぬかをたくさんつめたものがあります。だから、俵は目をはなすと、空に舞いあがってしまいます」
この話を笑いながら聞いた上皇は、俵に米をつめるときに不正がおこなわれていることをさとって、すぐに役人をいましめたということです。鎌倉時代の説話集に残っている話です。
僧正が50歳をすぎたころから、延暦寺や興福寺などの大きな寺で、たびたび、権力をめぐって僧たちの争いが起こりました。そのため、多くの僧は修行をおこたり、仏教の世界は乱れてしまいました。
『鳥獣戯画』も、このような社会を皮肉ったものだろうといわれています。サルの僧が、たくさんのみつぎものをもらっている絵などには、貴族と僧の堕落に対する、するどい批判がこめられています。
しかし、この『鳥獣戯画』が、ほんとうに鳥羽僧正の手でえがかれたものかどうか、はっきりはしていません。でも、この絵巻ものが、墨の線だけでえがいた、すぐれた日本画であることにはまちがいなく、いまは国宝として、京都の高山寺に保存されています。
「9月15日にあった主なできごと」
1600年 関が原の合戦…天下分け目の戦いといわれる合戦が、岐阜県南西部の地「関が原」でおこりました。徳川家康 ひきいる東軍と、石田光成 ひきいる西軍との戦いです。一進一退をくりかえしていたのが、西軍として参戦していた小早川軍が東軍に寝返ったことことで西軍は総崩れし、東軍の圧勝に終わりました。これにより、全国支配の実権は、家康がにぎることになりました。
1825年 岩倉具視誕生…公家出身で、幕末から明治前期に活躍した政治家 岩倉具視 が生まれました。
1881年 魯迅誕生…20世紀初頭の旧中国のみにくさを鋭く批判した「狂人日記」「阿Q正伝」を著した 魯迅 が生まれました。