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『四季』 のビバルディ

今日7月28日は、日本人がもっとも好きなクラシックのひとつ『四季』など、800曲近くを作曲したイタリア盛期バロックの代表的作曲家ビバルディが、1741年に亡くなった日です。

うれしい、春がやってきた。
小鳥たちは楽しそうに歌って、春にあいさつする。
いずみは、わきいで、そよ風にあわせて、
やさしく、ささやきながら、流れていく。

これは、ビバルディの曲としてもっとも広く親しまれている名曲『四季』のソネットの<春>の第1楽章にある部分です。ビバルディが47歳のころに作った曲で、これだけを単独で作曲したものではなく、<和声と創意への試み>という題をつけた『バイオリン協奏曲集 作品8』全12曲のうちの最初の4曲が、『四季』の春・夏・秋・冬にあたる部分です。

ソネットとは、イタリアに起こった、14行からなる詩のことで、ビバルディは、このような<春><夏><秋><冬>14行ずつの詩(だれの詩かわかっていません。ビバルディ自身が書いたものかもしれません)をもとにして、この名曲『四季』を作曲しました。ソネットにもりこまれた春のさえずり、野をわたるそよ風、木の葉や水のささやき、夏のやけつくような太陽、天をゆるがす雷、秋の村人たちの収穫の踊り、狩人に追われて逃げまどうけものたち、冬の冷たい北風、手足をこごえさせて野を急ぐ旅人、家の中のあたたかい炉ばた……などの、さまざまな情景をバイオリンの音色に変えて、四季のうつろいを、やさしく、こまやかに描きだしました。

来日したことのあるイタリアのイ・ムジチ合奏団演奏の『四季』は、日本だけでも6種類累計280万枚を売り上げたといわれるほど人気が高く、曲を耳にすれば (ユー・チューブ参照) 誰もが、印象深く聞いたことを思いうかべることでしょう。

アントニオ・ビバルディは、1678年に、北イタリアのベネチアに生まれました。父はサン・マルコ大聖堂の、すぐれたバイオリン奏者でした。少年時代のビバルディは、父からバイオリンや作曲法を学んで成長しました。また、サン・マルコ大聖堂の楽長から、オルガンや音楽の理論を学びました。

15歳で、修道院へ入り僧侶としての生活を始めました。そして、21歳で副司祭、25歳で司祭となり、生涯、僧侶としての肩書きを持ちつづけました。ところが、せっかく司祭になったにもかかわらず、わずか半年でその地位をしりぞきました。ビバルディは、ひどいぜん息もちだったため、ミサの最中に激しい発作におそわれて、祭壇をおりなければならないことがときどき起こり、しかたなく、寺院に願いでて司祭の職をしりぞいたのです。

当時ベネチアには、孤児や私生児や貧しい家の子どもたちを養育するために町がつくった、4つの宗教的なピエタ(救貧施設)がありました。司祭をやめたビバルディは、このピエタの付属女子音楽学校の教師としてつとめることになりました。ピエタの子どもたちは、天使のように歌い、バイオリン、チェロ、オルガン、フルート、オーボエ、ファゴットなどをみごとに演奏することができました。そして、自分たちだけで演奏会を開き、みんなが白衣をまとい耳もとに1輪の花をかざして演奏する姿は、町じゅうの人びとから愛されていました。

こうしてビバルディは、亡くなる前年の1740年までピエタの教師を続け、およそ770曲を、主としてピエタの子どもたちのために作曲しました。その大部分は協奏曲で、他にオペラ46曲、ソナタが90曲などがありました。

ビバルディは60歳の年に、アムステルダム劇場創立100年記念に招かれてオランダへおもむき、翌年の秋には、最後のオペラ『フェラスペ』をベネチアで初演、62歳の春には、新しいバイオリン協奏曲を作り、ピエタにザクセン公を招いて、みずから演奏しました。しかし、これが、ビバルディがピエタの少女たちのまえに、そして、ベネチアの人びとのまえに姿を見せた最後になってしまいました。

多数の楽譜をピエタの一室に残したまま、62歳のビバルディはとつぜん姿を消してしまったのです。そして、それから200年も経った1938年オーストリアの首都ウィーンの聖ステファン教会のある教区の1741年の死亡者名簿の中から、僧侶アントニオ・ビバルディの名が発見されたのです。しかも、この教区に住んでいた1人の皮細工師の家で亡くなり、貧しい人々を埋葬する共同墓地に投げ捨てるように葬られていたのでした。


「7月28日にあった主なできごと」

1750年 バッハ死去…宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めた バッハ が亡くなりました。

1866年 ポター誕生…世界で一番有名なうさぎ 「ピーターラビット」 シリーズ23点の作者ビアトリクス・ポターが生まれました。(2008.7.28ブログ 参照)

投稿日:2010年07月28日(水) 08:16

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)