今日7月13日は、「フランス革命」の指導者で、革命勃発後ジャコバン派の幹部として革命を指導し「恐怖政治」を推進したマラーが、1793年に暗殺された日です。
世界史上有名な「フランス革命」は、1789年7月14日のバスティーユ襲撃をきっかけに、全国で農民たちが蜂起して騒乱はフランス全土に広がっていきました。[国民議会] は、封建的特権の廃止を宣言して、基本的人権、国民主権などをもりこんだ人権宣言を採択しました。
1791年、憲法を制定して解散した国民議会に替わって発足した [立法議会] は、富裕な市民や富農層が支持し共和制をめざすジロンド派が優勢となりました。ジロンド派は、王権の停止と男子普通選挙による [国民公会] の招集を決め、共和制を宣言しました。
1793年になると、自国に革命が広がることを恐れた周辺諸国が、対仏大同盟を結成したころから、国民公会ではジロンド派に対抗する急進的なジャコバン派が勢力を伸ばしはじめました。ジャコバン派は、無産市民や小作農などを基盤にした党派で、ロベスピエールを中心とした指導者のひとりがポ−ル・マラーでした。
新聞『人民の友』を発行するマラーは、過激な政府攻撃をして下層民から支持されて、議会を主導するジロンド派を攻撃し、パリ民衆を蜂起させて、最終的に国民公会から追放することに成功しました。
しかし、その頃マラーは、持病の皮膚病が悪化して、薬用粘土をとかした自宅の浴槽につかりながら、執筆するような状態でした。そして1793年のこの日、反革命派の情報を知らせたいというひとりの娘が、マラー宅を訪れました。やがて、浴室から叫び声がきこえ、妻がかけつけると鮮血が床にあふれ、ナイフが原稿の上にころがっていました。暗殺者は、ジロンド派に傾倒する25歳の貴族の娘でした。暗殺後に、画家のダヴィッドが現場を訪れ、有名な『マラーの死』を描いています。
マラーの盟友ロベスピエールは、この絵を神格化し、ジロンド派への弾圧強化の口実としました。そして、急進的政策を打ち出し、ルイ16世や 王妃アントワネット ら反対派の人間を次々とギロチンにかけて処刑するなど、いわゆる「恐怖政治」を徹底させました。
ところが、1994年には穏健共和派によるクーデター(テルミドールの反動)がおき、ロベスピエールは処刑され、不安定な政局は長く続きました。
そして、革命軍の将校としての功績をあげて、国民の支持を得た ナポレオン が、1799年のクーデターで [統領政府] を樹立させたことで、10年の長きにおよんだ「フランス革命」はようやく終結するにいたるのです。
「7月13日の行事」
うらぼん…7月13日から16日までの4日間は、「お盆」といわれる行事です。お盆は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といいます。(2009.7.13ブログ 参照)
「7月13日にあった主なできごと」
1930年 サッカー初のW杯で国交断絶…サッカーのワールドカップの第1回大会がこの日はじまり、13か国の選手がウルグアイの首都モンテビデオで熱戦をくりひろげました。勝ち進んだのはウルグアイとアルゼンチンで、ウルグアイが4対2で逆転優勝しました。ところが、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスで暴動がおき、ウルグアイの領事館が襲われて国交断絶にまで発展しました。