児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  『車輪の下』 のヘッセ

『車輪の下』 のヘッセ

今日7月2日は、『車輪の下』『デミアン』『青春は美わし』などの小説や詩作によって知られる20世紀前半のドイツ文学を代表するヘッセが、1877年に生まれた日です。

中・長編小説『車輪の下』は、つぎのような内容です。

ハンスは、天分のある子として将来を期待される少年でした。父親や教師たちは、エリート養成学校である神学校へハンスをいかせようと、友だちとふれあうことも、川遊びや釣り、ウサギを飼うことも禁止して、夜中まで受験勉強に熱中させました。ひそかに心配してくれるのは、靴屋のフライク親方だけでした。

やがて試験の日がきます。はじめて小さな町から都会へ出て、各地の秀才たちと競争するのは、感じやすいハンス少年の心を痛めましたが、結果は2番の成績で神学校に合格することができました。

ハンスは模範的な生徒として、教師たちに愛され、友だちにも尊敬されました。ただ、同室のハイルナーだけは、ハンスをくそ勉強家として軽べつしました。ハイルナーは詩人肌の天分の持ち主でした。ハンスはそんなハイルナーに魅かれ、ふたりの間に友情がめばえました。しかし、この友情はハンスにとって嬉しい半面、勉強時間がつぶれるのが悩みでした。

ある日、ハイルナーはけんかがもとで校長から監禁の罰をくらい、仲間たちから孤立しました。模範生の名を傷つけたくなかったハンスは、ハイルナーと距離をおくようにしましたが、まもなくその行為は卑怯なことだと恥じて、仲直りを決意しました。

問題児の仲間となったことで先生からの信頼も失い、ついにはハイルナーの放校という憂き目にあったハンスは、とほうにくれました。気がつけば勉強にはついていけず、友人たちも離れていきました。ぼんやり物思いにふけり、何をいわれても微笑しか返せなくなったハンスは、神経病患者としてなかば強制的に退学へと追いこまれてしまいました。

父は、病気に対する不安から怒りや失望をおしかくしてハンスを迎えました。ハンスの心は深く傷ついていました。失われた幼・少年時代をなつかしがりながら町を歩きまわり、目的のない毎日を送りました。以前の教師はハンスに見向きもせず、友人たちからは落ちた期待のホープにたいするののしりも受けなければなりませんでした。

そんなある日、靴屋のフライク親方が、果汁しぼりにハンスを誘いました。久しぶりに陽気になったハンスは、そこで出合った少女に淡い恋をしました。きまぐれなキスだけで終わりますが、ハンスには、機械工になって再出発する勇気がめばえました。

こうしてはじめて労働のよろこびと苦しさを味わい、思い切り遊ぶ週末、ハンスは誘われて数人の仲間とピクニックに出かけました。ハンスははじめてタバコをすい、酒を飲み、仲間の引き止めるのをふりきって帰る途中、川におぼれて死んでしまいます。

でも、その死顔はとても満足そうで、笑っているように見えました……。

この『車輪の下』は、1877年ドイツ南部の小村カルフに生まれたヘルマン・ヘッセの、自伝的な作品といわれています。難関といわれる州試験に合格し、14歳のときに神学校に入学しますが、半年で退学させられました。絶望のために自殺をはかりますが未遂となって、神経科病院に入院。その後、高校入学するも中退し、本屋の見習い店員となりましたが3日で脱走するなど、さまざまな苦悩を体験しました。

そんな感じやすい少年の喜びや哀しみ、心の傷を切々と描きだし、子どもの心を理解しない教師や親、教育へ抗議をするような『車輪の下』は、ヘッセのたくさんの作品の中でも、もっとも読まれています。

その後ヘッセは、独学で文学や哲学を学び、『ペーター・カーメンチント』で認められ、おもにスイスに住んで作家活動に入りました。2度の世界大戦では、絶対的平和主義として戦争に反対しつづけました。第二次世界大戦終結後の1946年にノーベル文学賞を受賞し、1962年85歳で死去しました。


「7月2日にあった主なできごと」

1338年 新田義貞死去…鎌倉時代末期・南北朝時代に活躍した武将で、後に室町幕府を開いた足利尊氏と対立した 新田義貞 が亡くなりました。

1778年 ルソー死去…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家 ルソー が亡くなりました。 

1863年 薩英戦争…1862年に8月に、薩摩藩は横浜に近い生麦村で、島津久光の行列の先頭を乗馬で横切った英国人を殺傷する事件(生麦事件)をおこしたのに対し、英国は犯人の処罰と賠償金を要求。拒否した薩摩藩へこの日、イギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾へ侵入し、砲撃戦を開始しました。

1950年 金閣寺炎上…この日の早朝に、21歳の大学生が放火して国宝の舎利殿(金閣)が全焼しました。犯人が病弱で、重度の吃音者だったこと、金閣寺の見習い僧侶だったことなどがわかり、三島由紀夫 は『金閣寺』を、水上勉は『五番町夕霧楼』『金閣炎上』を著すなど文学作品が話題となりました。

1961年 ヘミングウェイ死去…『日はまた昇る』『武器よさらば』『老人と海』などを著したアメリカの小説家ヘミングウェイが亡くなりました。(2009.7.21ブログ 参照)

投稿日:2010年07月02日(金) 09:08

 <  前の記事 フランス最大の女流作家・サンド  |  トップページ  |  次の記事 下山事件  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/2105

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)