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『放浪記』 の林芙美子

今日6月28日は、名もなく・貧しく・たくましく生きる庶民の暮らしを、みずからの体験をもとに描いた作品で名高い女流作家 林芙美子(はやし ふみこ) が、1951年に亡くなった日です。

1903年、林芙美子は山口県下関市 (北九州・門司 という説もあります) に生まれました。父は雑貨を売ってあるく行商人でした。やがて、父と別れることになった母キクは、6歳の芙美子をつれて行商の旅に出ました。この日から、芙美子の家は日によって泊まるところの変わる木賃宿になりました。芙美子は、木賃宿から小学校にも通いましたが、10数回も転校しなければなりませんでした。

芙美子も、母の仕事を助けて、行商に歩いたこともあります。木賃宿に泊っている社会の底辺に生きる人たちは、言葉づかいこそ乱暴でも、心は温かく、芙美子をいたわってくれました。

芙美子には新しい父もでき、11歳のとき、一家は尾道に移り住みます。間借りながらも家庭ができ、小学校へも落着いて通うことができるようになりました。海ぞいの美しい町は、芙美子の第2のふるさとになりました。

工場でアルバイトをしながら、芙美子は高等女学校に通いました。本も読みたい、勉強もしたい、仕事もしなければならない、1日が48時間あればいい、と思うような生活でした。そして、貧しい家の少女にとって、学校は楽しいところではありませんでした。でも、文学や詩について語ってくれる若い先生がいることと、図書室があることが芙美子にとってただひとつのなぐさめでした。

芙美子は18歳のとき、東京へ出ました。ここでも苦しい生活の連続です。工場、カフェ(喫茶店)、産院、毛糸屋、新聞社などいろいろなところにつとめました。はたらいても働いても、きざんだキャベツのおかずが1番のごちそうというような生活でした。芙美子は、そうした生活の悲しみや希望をかざらずに率直に『放浪記』として書きつづけました。それまで自分の書いた原稿を持って、新聞社、雑誌社を歩きましたが、ほとんど売れませんでした。ある日、疲れて帰ってきた芙美子は、玄関に1通の手紙が置いてあるのを見ました。

「めったに速達を受けるようなことのないわたしは、裏を返して見て急に狂人のように手がふるえてきました」

芙美子はへなへなとそこに、しゃがみこんでしまいました。『放浪記』を出版するという知らせでした。『放浪記』は暗い不景気の時代のなかに生きていた人びとに強い共感をもって迎えられ、たちまちベストセラーとなりました。

『うず潮』『晩菊』『浮雲』など、名もない雑草のような庶民の生き方をえがいた作品が、芙美子の代表作です。芙美子は、1951年、波乱にとんだ生涯を47歳の若さで閉じました。

なお、オンライン図書館 「青空文庫」 では、林芙美子の作品を50数点読むことができます。


「6月28日にあった主なできごと」

1491年 ヘンリー八世誕生…首長令を発布して「イングランド国教会」を始め、ローマ法王から独立して自ら首長となった ヘンリー8世 が生まれました。(2010.1.28ブログ 参照)

1712年 ルソー誕生…フランス革命の理論的指導者といわれる思想家 ルソー が生まれました。

1840年 アヘン戦争…当時イギリスは、中国(清)との貿易赤字を解消しようと、ケシから取れる麻薬アヘンをインドで栽培させ、大量に中国へ密輸しました。清がこれを本格的に取り締まりはじめたため、イギリスは清に戦争をしかけて、「アヘン戦争」が始まりました。

1914年 サラエボ事件…1908年からオーストリアに併合されていたボスニアの首都サラエボで、オーストリア皇太子夫妻が過激派に暗殺される事件がおこり、第1次世界大戦の引き金となりました。

1919年 ベルサイユ講和条約…第1次世界大戦の終結としてが結ばれた講和条約でしたが、敗戦国ドイツに対しあまりに厳しい条件を課したことがナチスを台頭させ、第2次世界大戦の遠因となりました。

投稿日:2010年06月28日(月) 09:00

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)