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魂の画家・クレー

今日6月29日は、20世紀前半に独特の童画風の絵をえがき、現代抽象画の世界に大きな影響を与えたスイス出身の画家・美術評論家 クレーが、1940年に亡くなった日です。

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パウル・クレーは、1879年スイスの首都ベルン郊外に生まれました。父親は音楽の教師、母親も歌が上手で音楽につつまれた家庭でした。幼いころからバイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くほどの腕前でした。そのため1898年、ドイツのミュンヘンに出て絵を志すまで、将来の道を決めかねていました。クレーにとっては生涯、音楽も絵も、自分を表現する手段として欠くことのできない存在でした。

美術学校に入学したクレーは、幻想的な絵をえがく教師の指導を受けました。その影響からか、幻想と怪奇を追い求めた画家たちに心を魅かれました。でも学校の画一的な教育はクレーにあわず、1年後には退学し、1901年から翌年にかけてイタリアを旅行して、ルネサンスやバロックの絵画や建築を見てまわりました。

ところが、誰もがほめたたえるルネッサンス期の巨匠たちの絵にはあまり興味がなく、古びた僧院の純粋さや、ステンドグラス、織物などから多くを学びました。さらに、クレーをとりこにしたのは、ジェノア港に集まってくるたくさんの船が出入りする眺めや、ナポリの水族館の水槽の中を夢のように泳ぐ魚たちの不思議さでした。クレーの作品に表れる軽やかな線は、こんな船や魚たちの動きを、自分の感情におきかえて表現したにちがいありません。

クレーは初期には風刺的な銅版画やガラス絵などを試み、またアカデミックな手法の油絵を残しています。その後はときどきパリを訪れて、セザンヌやゴッホ、ピカソやマチスらの作品に感銘して、その後のクレーの絵の抽象化や独自の画風を確立させる原点の一つとなりました。

さらにクレーの転機となったのは、1914年春から夏にかけてのチュニジア旅行でした。この旅行で、明るい太陽の世界と、あざやかな色彩が特徴のムーア人の美術、街の中に響くさまざまな音楽に刺激されました。それは、若い頃から親しんできたバッハのフーガの調べとが結びついて、絵と音楽の融合を意識した瞬間でした。この体験がクレーの作風を一変させたのです。クレーの代表作のほとんどは、この旅行以後のものだといってよいでしょう。

1919年ミュンヘンの画商ゴルツと契約を結んだことをきっかけに、ニューヨークやパリで個展が開かれ、現代美術の最前線に位置する画家の一人として、クレーの名は国際的に知られるようになりました。

いっぽう、ワイマールにできた生活の中に芸術をめざす「バウハウス」の教授となって、10年以上も造形や色彩、そして音楽との調和という独自の講義を行い、多くの理論的著作を残しました。

その後、デュッセルドルフの美術学校で教授をしていましたが、1933年のナチス政権の成立とともにはじまった前衛芸術の弾圧に、生まれ故郷のベルンへ移りました。帰国直後は創作もはかどりませんでしたが、1937年には復調して旺盛な創作意欲を見せ、1939年にはデッサンも含めた1年間の制作総数は1200点以上といわれています。しかし、重い病に手がうまく動かなくなり、1940年ロカルノ近郊の療養所で死去しました。

クレーの名は、死後ますます注目され、若い画家たちに「20世紀の明星」と慕われ続けています。

 

「6月29日にあった主なできごと」

1866年 黒田清輝誕生…『湖畔』『読書』などの作品を描き、わが国の洋画の発展に大きな功績を残した画家 黒田清輝 が生まれました。

1903年 滝廉太郎死去…『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した 滝廉太郎 が亡くなりました。

1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人らにも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。

投稿日:2010年06月29日(火) 09:08

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)