今日3月3日は、江戸城外桜田門近くで江戸城に向かう大老・井伊直弼と約60人の行列に、水戸浪士ら18名が行列に切りこみ、かごの中の井伊の首をはねる「桜田門外の変」が、1860年に起きた日です。
1853年にアメリカの ペリー が黒船4隻をともなって浦賀に来航し、日本に開国をせまりました。翌年の3月3日に、今度は7隻の軍艦をひきいて再来日したため、徳川幕府は「日米和親条約」を結んで、鎖国を解き、下田(静岡県)と箱館(現・函館)の2港を開きました。ただし、この条約は燃料や食糧の補給を許可しただけで、貿易をするまでには至っていませんでした。
1858年、アメリカ総領事のハリスは、日本に貿易をするように強く要求をしてきました。この時の徳川幕府の最高権力者である大老が 井伊直弼 でした。井伊は、朝廷をはじめたくさんの反対意見を無視し、「日米修好通商条約」を結んでしまったのです。この条約で、箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎の5港を開港しました。この条約は、治外法権(日本の法律や裁判権の支配を受けない特権)と関税自主権の放棄という、不平等なものでした。しかも、幕府はアメリカに引き続きイギリス、オランダ、フランス、ロシアとも同様な条件で、結ばざるをえませんでした。
13代将軍家定の跡継ぎ問題で、紀州藩主の徳川慶福(のちの14代将軍家茂)を推す井伊は、「安政の大獄」という大弾圧を引き起こしました。弾圧されたのは尊皇攘夷派や一橋派大名(一橋慶喜を推すグループで、水戸徳川斉昭、島津斉彬、松平慶永ら)、公卿、志士(吉田松陰、橋本左内らは処刑)、連座した人たちは100人以上にのぼりました。
こうした井伊の独断的なやり方に不満やうらみを持つ者は多く、脱藩した浪士らが大雪の降るこの日「桜田門外の変」をおこしたのです。
屋台骨を失った徳川幕府は動揺し、いっきに体制が崩れ、尊王攘夷運動も激しさを増して「明治維新」につながっていきました。
「3月3日の行事」
ひなまつり…女の子のすこやかな成長を祈る年中行事「ひなまつり」の日です。「耳の日」でもあるこの日の行事について綴った 2009年3月3日のブログ を参照ください。