今日3月2日は、ソビエト連邦最後の最高指導者となり、ペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進め、政治・経済・文化などの合理化・民主化を行って第2次世界大戦後の東西間の冷戦を終わらせたゴルバチョフが、1931年に生まれた日です。
ミハイル・ゴルバチョフは、北カフカスのスタブロポリ地方の村にあるコルホーズ(協同組合形式による集団農場)で、農民の子として生まれました。コンバインの操縦助手として働きながら上級学校に学び、優秀な成績をおさめたために推薦でモスクワ大学に入学、在学中に共産党に入党しました。
地元の青年共産同盟で、共産党の活動に従事しながら、スタブロポリ地方党委員会第一書記をへて、1971年には40歳の若さで党中央委員に選出されました。1978年に党中央委員会書記に抜てきされてモスクワに移り、1980年には49歳で党中央委員会政治局員に最年少スピード昇進をとげました。
そして1985年3月11日、ゴルバチョフは54歳で後任書記長に選出され、党の最高指導者となりました。当時のソ連は、さまざまなところでシステムの弊害が噴出していて、崩壊寸前の状態といってもよいほどでした。前政権は社会改革を行うこともなく終わり、ゴルバチョフに課題が回ってきていたのです。
書記長就任演説でゴルバチョフは、政治、経済、社会の改革を推進すると宣言しました。この改革は「ペレストロイカ」とよばれています。その背景に、ソ連国内の経済のいきづまりと、国民の共産党不信があり、その危機意識が、大改革をよぎなくさせたといってよいかもしれません。ペレストロイカは、憲法を改正し、共産党以外の政党をみとめ、大統領制を導入するところまで進んでいきました。
1930年以降、共産党の一党独裁しか認めず、そのため共産党の命令を守らなかったり、批判したりすることは厳しく罰せられるという自由のない社会で、特権官僚が国を支配し、支配者に都合のよいことしか国民に知らされなかったのです。
ゴルバチョフは、国民の不信をなくすために、さまざまな情報をありのまま国民に知らせることからはじめました。これを、「グラスノスチ」(情報公開)といいます。その結果、ソ連社会内部の欠陥や矛盾が明らかにされ、共産党への批判はさらに強まり、ペレストロイカの徹底を求める国民の声は、東欧諸国までもまきこんで一挙に広まり、東欧諸国のどの国でも共産党の権威は失墜していきました。
ソ連は、1990年3月、臨時人民代議員大会をひらいて、国家元首を大統領にすること、共産党の一党独裁をやめること、個人の土地や財産の所有、経済活動を認めることなどを定めた新憲法を採択し、初代大統領にゴルバチョフを選びました。
ソ連に劇的変化がおきたのは、1991年8月におきた保守派によるクーデターの失敗がきっかけでした。クーデター失敗後に解放されたゴルバチョフ大統領は、クーデターに反対しなかったソ連共産党中央委員会に対し、党を解散するよう求め、みずから党書記長職を辞任する意思を表明しました。これによって、ソ連共産党は事実上解散されることになりました。
これがソ連邦崩壊の第1歩となり、1991年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラブ系3共和国が「独立国家共同体」(CIS) を創設、まもなくカザフスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、キルギス、モルドバ、アルメニア、アゼルバイジャン、トルクメニスタン、グルジアの9か国が加わり、旧ソ連の12の共和国が、EU(ヨーロッパ連合) 型のゆるやかな国家連合体を形成しています。
ゴルバチョフは、ソ連消滅を受けて大統領を辞任しました。1990年にはノーベル平和賞を受賞するなど、日本を含む西側諸国ではとても人気があり、「ゴルビーの愛称」で親しまれましたが、ソ連崩壊後のロシアでは、「古き良き時代のソ連を崩壊させた人物」「アメリカに魂を売った売国奴」などといわれて不人気でした。そのため1996年6月にロシア大統領選挙に出馬したものの、0.5%の支持しか得られずに落選してしまいました。
「3月2日にあった主なできごと」
1894年 オパーリン誕生…生物の起源を科学的に説き明かしたソ連(現ロシア) の生化学者オパーリンが生まれました。
1943年 野球用語の日本語化…太平洋戦争の激化に伴って「英語」は敵性語であるとされ、この日陸軍情報部は、日本野球連盟に対し、野球用語を日本語化するよう通達を出しました。ちなみに、ストライクは「よし」+本数(1本・2本)。三振は「よし3本、それまで!」、アウトは「よし、退(ひ)け!」、フォアボールは「一塁へ」などとなりました。
1958年 南極大陸横断に成功…イギリスのフックス隊が、ウェデル海から南極大陸に上陸し、南極点を通ってロス海に到達するまで3360kmの行程を、99日間の苦しい旅の末に、この日横断に成功しました。