今日7月29日は、明るく力強い『ひまわり』など、わずか10年の間に850点以上の油絵の佳作を描いた後期印象派の代表的画家ゴッホが、1890年に亡くなった日です。
オランダに生まれフランスで活躍した画家ゴッホ。若くして画才を認められ、その才能を着実に開花させた画家がほとんどなのに対し、ゴッホが絵かきをめざしたのは1880年、27歳になってからでした。
1886年、33歳になったゴッホは、弟テオの世話でパリに出ます。日本の浮世絵のみごとな単純化を知っていた彼は、パリで印象派の画家につきあうと、いっぺんに色が明るくなりました。そして、ゴッホの絵が大きく開花するのは、1888年、南フランスの明るいアルルにいってからでした。15か月間のアルル生活で描いたゴッホの作品はおよそ190点、ひまわり、花さく果樹園、つり橋、オリーブ畑、糸杉など、どれもこれも傑作ぞろいといってよいでしょう。
『アルルのゴッホは、春は果樹園や畑に立ちつくし、夏は燃える太陽にからだをさらして、花、木、道、川、橋、空、太陽を描きつづけました。それは、野にあふれた光と色を、すべて自分のものにしてしまわなければ気がすまないような、激しさでした。夜も町へでて星空の下の町かどをかき、昼も夜も目に見えるものならなんでも絵にするゴッホを見て、アルルの人びとは半ば笑い、半ば驚きの声をもらしました。
やがてゴッホは、パリで知りあった ゴーガン をよびよせました。そして、ゴッホが用意した黄色い家で、芸術を語りあう楽しい生活を始めました。ところが、いつまでもつづくはずだったふたりの生活は、わずか2か月でやぶれてしまいました。性格と、芸術にたいする考えかたのちがいから、ついにクリスマス・イブの日に、ゴッホはカミソリを持ってゴーガンを追いかけまわしてしまったのです。そして、錯乱状態のまま、ゴッホは、自分の左耳の一部をそぎ落としてしまいました。
ゴーガンはアルルを去り、顔にほうたいを巻いたゴッホは、精神病院にとじこめられました。テンカンの発作がおきただけで、気が狂ったわけではありませんでしたが、それでも、ときどきおそってくる発作と闘わなければなりませんでした。
しかし、絵をかくことはやめませんでした。病室では部屋にころがっているものや、窓から見えるものを片っぱしから描き、半年ごに退院すると、ふたたび太陽の下で絵筆をとりました。でも、それはもう、燃えつきようとするろうそくが、最後の光を放っているようなものでした。
発作の不安から完全にのがれることのできなかったゴッホは、1890年の夏に美しいオーベールの村に移ってまもなく、ついに、太陽がふりそそぐ緑の丘で、自分の胸にあてたピストルの引き金を引いてしまったのです。そして病院に運ばれて2日の後に、テオの手をにぎりしめたまま、37歳の生涯を閉じました。
ところが、まるで、兄弟ふたりのたましいがたがいに呼びあったかと思われるように、テオも、それから半年の後にゴッホのあとを追うかのように、亡くなってしまいました。
ゴッホほど、自分の情熱を燃えあがらせた画家は、ほかにいないかもしれません。また、これほど人びとから理解されなかった画家も、ほかにいないかもしれません。自分が生きているあいだに売れた絵は、たったの1枚だけでした』
『』内の記述は、いずみ書房のホームページ・オンラインブックで公開している「せかい伝記図書館」第14巻「ゴッホ」の一部を引用したものです。ゴッホの詳しい生涯を知りたい方は、ぜひアクセスしてみてください。
なお、2007年10月26日のブログ では、ゴッホ「アルルの寝室」について綴っています。