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ロシアの劇作家・チェーホフ

今日7月2日は、ロシアを代表する劇作家であり、短編小説家でチェーホフが、1904年に亡くなった日です。

「人間には、だれにだって、よろこびもあれば悲しみもある。だから人間は、たとえ苦しくても生きていかなければならない」

このような考えで、だれにでもわかる劇や小説を書いたアントン・パブロビッチ・チェーホフは、1860年に、ロシア南部のタガンログという港町で生まれました。

雑貨屋を営んでいた父はとても乱暴な人だったので、少年のころのチェーホフは、よくなぐられました。そのうえ、16歳のときに父が破産して家族はちりぢりになってしまい、少年らしい楽しみなど、1度も味わったことがありませんでした。

しかし、チェーホフはふしぎなほど希望を失わず、家庭教師をしながら中学校を卒業しました。そしてモスクワ大学へ入学して、医者になるための勉強をしながら、授業料と生活費をかせぐために、短いユーモア小説を書きはじめました。

300編もの短編小説が、つぎつぎに新聞や雑誌に発表され、大学を卒業するころには、小説を書くだけで母や兄弟を養えるほどになっていました。ところが、あるとき有名な老作家から、たくさん発表するよりもすぐれた作品を書きあげていくことのほうがたいせつだと、思いやりのある忠告を受けました。

チェーホフは反省しました。そして、それからは人間の生きかたを深くみつめた作品を書くようになりました。

精神病院の医者が、患者から逆に狂人あつかいされて死んでいくすがたを描き、ロシアの暗い社会をひにくった『6号室』。愛情をささげる人によって、自分の生きかたまで変わっていく女性を描いた『可愛い女』。平凡な人生のなかの小さな光を見つめた『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』「桜の園』は、のちにチェーホフの4大戯曲といわれるようになりました。

大学を卒業したころから結核におかされていたチェーホフは、これらの名作を、病気とたたかいながら書きました。生きることを愛するやさしい心は、どの作品にもあふれでています。

チェーホフは、小説を書きつづけたばかりではありません。医者としても、島に流された罪人や伝染病に苦しむ人びとのためにはたらきました。さらに、自分で学校を建てたり、ふるさとの小学校に本を寄付したりして、社会のためにつくしました。

チェーホフの劇をよく理解していた女優クニッペルと結婚したのは41歳のときです。ところが、それからわずか3年のち、結核が悪くなってドイツの温泉地で亡くなってしまいました。

チェーホフの作品は明治時代から日本人にも親しまれ、とくに日本文学や演劇の発展に大きな影響をあたえました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)13巻「ノーベル・マークトウェーン・コッホ」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「チェーホフ」をもとにつづりました。

チェーホフの作品は、オンライン図書館「青空文庫」で、数点を読むことができます。なお、今話題のベストセラーとなっている村上春樹の小説『1Q84』に、1890年にチェーホフが流刑地サハリンを訪問した際の紀行記『サハリン島』からの引用があり、ストーリーの重要な位置を占めるため、岩波文庫が急遽再刊になったり、中央公論社も、全集の中から『サハリン島』の部分を抜き出して再刊することになったと報道されています。


「7月2日にあった主なできごと」

1863年 薩英戦争…1862年に8月に、薩摩藩は横浜に近い生麦村で、島津久光の行列の先頭を乗馬で横切った英国人を殺傷する事件(生麦事件)をおこしたのに対し、英国は犯人の処罰と賠償金を要求。拒否した薩摩藩へこの日、イギリス東洋艦隊7隻が鹿児島湾へ侵入し、砲撃戦を開始しました。(2008年8月21日ブログ「生麦事件をおこした日」参照)

1950年 金閣寺炎上…この日の早朝に、21歳の大学生が放火して国宝の舎利殿(金閣)が全焼しました。犯人が病弱で、重度の吃音者だったこと、金閣寺の見習い僧侶だったことなどがわかり、三島由紀夫 は『金閣寺』を、水上勉は『五番町夕霧楼』『金閣炎上』を著すなど文学作品が話題となりました。

投稿日:2009年07月02日(木) 10:22

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)