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唐の都長安に骨をうずめた阿倍仲麻呂

今日7月1日は、奈良時代に遣唐留学生として中国(唐)にわたり、唐朝の高官に登るも日本への帰国が果たせなかった歌人・阿倍仲麻呂(あべの なかまろ)が、770年に唐で亡くなったといわれている日です。

日本の朝廷は、630年から894年までの264年間に15回にわたって、中国で栄えていた唐の国へ、使節を送りました。遣唐使です。唐の、進んだ政治のしくみ、学問、文化などを学ばせるために、日本の僧や学生たちを留学させたのです。

698年に、朝廷につかえる役人の子として生まれた阿倍仲麻呂は、19歳のときに、この遣唐留学生にえらばれて唐へ渡りました。4隻の船に乗った人びとは500人をこえ、吉備真備 や僧の玄ムなどもいっしょでした。

仲麻呂や真備が、遠い祖国をしのびながら学ぶうちに16年がすぎ、留学生たちは日本へもどって行きました。でも、そのなかに、仲麻呂のすがたはみあたりませんでした。唐の玄宗皇帝が、別れを惜しんで帰国を許さなかったからです。

唐に残った仲麻呂は、名を中国ふうに朝衡と改め、長安(いまの西安)の大学を卒業ののち、科挙とよばれた役人になるための最高の試験にも合格して、玄宗につかえました。そして、詩人の 李白 や王維とまじわりながら、さらに学問を深め、しだいに出世して唐の貴族と肩を並べるほどになりました。

しかし、日本のことを忘れることはできませんでした。

752年、真備がふたたび遣唐使として唐へやってきました。そして、仲麻呂と真備は19年ぶりに手をにぎりあい、仲麻呂はやっと帰国が許されて、つぎの年に日本への船に乗ることになりました。玄宗は、すでに54歳にもなった仲麻呂が、なみだを流しながら真備と語りあうのを見て、唐にこれ以上とどめておくのを、かわいそうに思ったのかもしれません。

天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも

仲麻呂は、唐をはなれるとき、いまも『古今集』に残るこの名句をよんで、日本をなつかしみました。

ところが、三笠の山にかかる美しい月を見る夢は、かないませんでした。船が沖縄を通過してまもなく大あらしにおそわれ、真備を乗せた船はかろうじて日本へついたのに、仲麻呂の船は鎮南(いまのベトナム)へ流されてしまったのです。

仲麻呂は、天をあおいで悲しみました。しかし、これも運命とあきらめて、ふたたび玄宗につかえました。そして、770年に、二度と日本の土をふめないまま、72歳の生涯をとじました。仲麻呂は、唐で学んだことを日本へ伝えることはできませんでした。しかし、日本人としてりっぱに生きたことで、日本と唐との親善に大きな役割を果たしました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)19巻「聖徳太子・中大兄皇子」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「阿倍仲麻呂」をもとにつづりました。


「7月1日にあった主なできごと」

1787年 寛政の改革…江戸幕府の老中 松平定信 は、8代将軍 徳川吉宗 の享保の改革にならい、この日から「寛政の改革」を行い、武芸や学問の奨励、緊縮財政、風紀取締りによる幕府財政の安定化をめざしました。一連の改革は、田沼意次 が推進した商業重視政策を否定したものでした。

1918年 赤い鳥創刊…日本には、わが子に読ませたくなるような作品がないことを残念に思った作家の鈴木三重吉が、童謡と童話の雑誌 「赤い鳥」を創刊しました。(2007年6月27日ブログ 「鈴木三重吉と赤い鳥」 参照)日本童謡協会は、「赤い鳥創刊」を記念して、1984年より7月1日を「童謡の日」と制定しました。

1997年 香港返還…アヘン戦争を終結させるため、清とイギリス間で結ばれた南京条約(1842年)により、イギリスに割譲された香港でしたが、この日、イギリスから中国へ返還され、特別行政区となりました。

投稿日:2009年07月01日(水) 09:10

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)