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生麦事件のおきた日

生麦(なまむぎ)事件とは、1862年8月21日に現在の横浜市鶴見区生麦で、イギリス人4人が殺傷された事件です。江戸から京都に向かう薩摩藩主の父であり、薩摩の実権を握る島津久光の一行が生麦村にさしかかったおり、前方をリチャードソンらイギリス人4人が乗馬のまま横ぎったことにより、一部の藩士がリチャードソンを斬り、傷を負って落馬したところを止めをさしました。他の二人も負傷、もう一人の女性は帽子をきられただけでしたが、精神的なショックを受けて間もなく死亡しました。

当時の全国の大名たちは、幕府をはさんで二派に別れて対立していました。一つは薩摩、越前、水戸などのグループで、将軍の跡継ぎに一橋慶喜(よしのぶ)をむかえて、ひびの入った幕府の政治をあらためようとしていました。これに対抗する勢力は、彦根、紀伊などの親藩グループで、このグループの彦根藩主・井伊直弼(なおすけ)が大老になると、紀伊から将軍家茂(いえもち)をむかえ、1858年には日米通商条約に調印して開国、さらにイギリス、フランス、ロシアなどとも条約を結びました。そして、これに反対する勢力をおさえつけ、吉田松陰や梅田雲浜(うんぴん)、頼三樹三郎らを死刑にしたり、天皇に近づいた反対派大名のけらいたちを牢に入れたり、暗殺したりしました(安政の大獄)。怒った水戸や薩摩の浪士たちは、1860年江戸城の桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。

これで、薩摩、長州、越前など、天皇をかつぎだして幕府の実権をにぎろうとする「公武合体派」が勢力を盛り返し、1861年から翌年にかけて、孝明天皇の妹和宮(かずのみや)を将軍家茂の夫人とし、一橋慶喜を将軍の後見人に、越前藩主松平慶永(よしなが)を大老に任じました。一方このような大名中心の公武合体では手ぬるいと、下級武士らは「尊王攘夷」(天皇を尊び外国人をうちはらう)を合言葉に幕府を倒そうと、1862年1月、坂下門外で老中安藤対馬守(つしまのかみ)を襲って負傷させました。

その4月、京都御所の警備にあたっていた島津久光は、大兵を率いて江戸にむかうとき、京都伏見の寺田屋で、血気にはやる自藩の尊王攘夷派の有馬新七らを斬って、この勢力をおさえました。生麦事件は、この帰り道の出来ごとで、何とも皮肉な事件といえそうです。

生麦事件を調べた神奈川奉行は、島津久光に下手人(げしゅにん)を出すようにかけあったところ、久光は「先年脱藩した足軽が、行列を見にきてやったことで、我らが知るところではない」と突っぱね、行列を整えて引き上げていきました。

この事件でイギリスは、幕府をおどして賠償金10万ポンドを払わせたばかりでなく、翌年の8月に7隻の艦隊を鹿児島湾沖にくりだし、生麦事件犯人の引渡しと、賠償金2万5000ポンドを薩摩藩に要求しました。薩摩藩はこれを拒否、薩英戦争が起こりました。ともに甚大な被害を蒙りましたが勝敗はつかず、双方があなどれない相手であることを自覚したものと思われます。薩摩藩は攘夷の間違いをさとり、イギリスは幕府支持の方針を変えて、薩摩藩と接近するほうが得策だと考えるようになりました。いずれにせよ、この生麦事件と薩英戦争は、明治維新にいたる前夜の、重要なできごとといってよいでしょう。

「8月21日にあった主なできごと」

1911年 パリのルーブル美術館から、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」がこの日に盗まれました。2年後、フィレンツェのホテルで無事発見されましたが、盗みだしたイタリア人のペンキ職人は「レオナルドの故国イタリアへ絵を返してもらっただけだ」と豪語したと伝えられています。レオナルド・ダ・ビンチの詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「レオナルド・ダ・ビンチ」 をご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

1940年 レーニン、スターリンらとともにロシアの革命の指導者だったトロツキーが、レーニンの死後スターリンと意見が対立して国外追放にあい、メキシコで暗殺されました。

1959年 アメリカ領だったハワイが、アラスカに続きアメリカ第50番目の州となりました。

投稿日:2008年08月21日(木) 09:18

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)