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小倉百人一首・新古今和歌集と藤原定家

今日8月20日は、「小倉百人一首」や、万葉集、古今集と並び日本の3大和歌集の一つ新古今和歌集を編さんした鎌倉時代の歌人 藤原定家(さだいえ、またはていか)が、1241年になくなった日です。

日本人に、かるた遊びで最も広くしたしまれている古い歌集に『小倉百人一首』があります。7世紀から13世紀にかけての歌人100人の和歌を、1首ずつ集めたものです。

藤原定家は、この百人一首を選んだといわれる、鎌倉時代初めの歌人です。そのころの最高の歌人藤原俊成を父に、1162年に生まれ、幼いときから、歌人になるためのきびしい教育を受けて成長しました。

早くも16歳のときに、貴族たちが和歌をきそう歌合の会にまねかれるほどになっていた定家は、24歳ころ関白の九条家にめしかかえられました。そして、日本の古い文学や中国の詩なども学びながら、一流歌人の慈円や藤原良経らとまじわっておおくの歌をよみ、またたくまに名の知れた歌人のひとりになりました。

ところが、1196年に九条家が関白の座を追われたため、34歳の定家も高い官位へのぼる希望を絶たれ、歌もよめないほどの暗い生活がつづくようになってしまいました。宮廷につかえる歌人は、どんなに歌人としてすぐれていても、官位が低くては豊かな生活はのぞめなかったのです。

およそ5年ののち、定家にふたたび明るい希望をあたえたのは、定家を『新古今和歌集』の歌を選ぶ歌人のひとりに加えた、後鳥羽上皇でした。

「上皇は、このうえなく和歌を愛しておられる。その上皇といっしょに新しい歌集が作れるとは、なんと幸せなことだろう」

定家は、天皇の位を土御門天皇にゆずったばかりの20歳の上皇によくつかえ、それから4年、その時代の和歌のなかから約1900首の歌をえらぶしごとに励みました。

歌をえらぶあいだ、定家は意見のくいちがいで、上皇となんどもしょうとつしました。上皇をどんなに尊敬していても、歌人として自信をもっていた定家は、歌のことでは自分の考えをまげなかったからです。

そののちの定家は、自分の歌も4000首ちかくおさめた自選歌集を作りました。いろいろな歌集の解説書も書きました。また『土佐日記』『源氏物語』『伊勢物語』『更級日記』などを書き写して、日本の古い文学をのちの世に正しく伝えるしごとにも励み、1241年に79歳の生涯を終えました。

『新古今和歌集』は『万葉集』『古今和歌集』とともに、日本の3大歌集のひとつに数えられています。『小倉百人一首』は、定家が京都の小倉山の山荘で、びょうぶにかきつらねたものだといわれています。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 21巻「平清盛・源頼朝・源義経」の後半に収録されている7編の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

「8月20日にあった主なできごと」

1839年 吉田松蔭の松下村塾に学び、農民や町民を集めて奇兵隊を組織し倒幕に力をそそいだものの、明治維新を前に若くして病死した長州藩士高杉晋作が、1839年に生まれた日です。高杉晋作については、昨年8月20日のブログ をご覧ください。

1926年 1925年の春に、東京、大阪、名古屋の放送局がラジオ放送をはじめていましたが、この3局がいっしょになって、日本放送協会(NHK)を創立させました。設立当時の聴取者は、わずか2万5000人でした。

1941年 彫刻家で詩人の高村光太郎が、精神病となり7年間病気とたたかって亡くなった妻智恵子を歌った詩集「智恵子抄」を刊行。智恵子は東京には空がないという/ほんとうの空が見たいという・・・ではじまる「あどけない話」や「レモン哀歌」など29編の詩や短歌は、今も多くの人たちに感動を与え、映画やテレビドラマにもよく登場します。詩の内容はすべて、青空文庫 で読むことができます。

投稿日:2008年08月20日(水) 09:08

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)