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日本近代音楽の父・山田耕筰

今日6月9日は、日本語の美しい言葉を活かしたメロディーで『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』など多くの作品を残し、世界的に著名な交響楽団を指揮するなど、国際的にも活躍した音楽家・山田耕筰(やまだ こうさく)が、1886年に生まれた日です。

「からたちの花が咲いたよ、白い、白い、花が咲いたよ」

この 北原白秋 の詩『からたちの花』の作曲者として知られる山田耕筰は、明治時代のなかごろ、東京で生まれました。父も母も、キリスト教を信仰するクリスチャンでした。

家でオルガンや賛美歌を聞いて育った耕筰は、幼いころから音楽がすきでした。町を軍楽隊が通るときは、心をはずませて、どこまでもついて行きました。

耕筰が9歳のときに父が亡くなると、父がいい残したことを守って、印刷工場と夜学校がひとつになったキリスト教の勤労学校へ入れられました。母ともはなれて、ひとりぼっちです。毎日、小さなからだではたらきつづけ、つらくなったときは学校のまわりのカラタチの垣根のかげで、そっと泣いたということです。このときの思い出が、のちに名歌曲『からたちの花』を生んだのでしょうか。

13歳のとき病気になり、家へ帰りました。そして、まもなく、イギリス人のもとへ嫁いでいた岡山の姉のもとへ行き、義兄から、音楽や英語を学び始めました。

耕筰が、ほんとうに音楽の道へ進むことになったのは、18歳の年に母を亡くしてからです。母は、耕筰が胸のなかで音楽家への夢をあたためていることを、早くから知っていました。その母の、亡くなるときのこころざしで、東京音楽学校(いまの東京芸術大学)へ入学することができたのです。

1908年に、すばらしい成績で音楽学校を卒業した耕筰は、2年ごには、日本人で初めてドイツのベルリン国立音楽学校へ留学して、4年のあいだ作曲を学びました。そして、28歳で帰国したときには、すでに、歌曲、交響曲、歌劇曲などに才能をしめす、すぐれた音楽家になっていました。

1915年には、日本で初めての交響楽団「東京フィルハーモニー会管弦楽部」を結成しました。また、1917年にはアメリカへ渡り、カーネギー・ホールでニューヨーク交響楽団などを指揮して、自分の曲の発表をおこない、大成功をおさめました。

耕筰は、日本の交響楽や歌劇の発展に力をつくしました。しかし、最大の夢は、日本のほんとうの国民音楽を育てあげることでした。日本人の心にしみる『からたちの花』『赤とんぼ』『この道』などの歌曲や童謡のなかに、そのねがいがあふれています。耕筰は、日本の美しいことばでつづる、美しい日本の歌を愛しました。1965年に79歳で世を去った耕筰は、日本近代音楽の父として、日本の歴史に大きく名をとどめています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「山田耕筰」をもとにつづりました。


「6月9日にあった主なできごと」

1870年 ディッケンズ死去…「オリバー・ツイスト」 「クリスマスキャロル」 「二都物語」 など弱者の視点で社会諷刺した作品群を著しイギリスの国民作家といわれるチャールズ・ディケンズが、亡くなりました。( 2008年6月9日ブログ 参照)
 
1923年 有島武郎死去… 志賀直哉・武者小路実篤 らとともに同人「白樺」に参加し、『一房の葡萄』『カインの末裔』『或る女』などの小説、評論『惜みなく愛は奪ふ』を著した 有島武郎 は、この日軽井沢の別荘で雑誌編集者と心中、センセーショナルをまきおこしました。

投稿日:2009年06月09日(火) 09:00

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)