今日6月10日は、水戸黄門の名でしたしまれ、徳川家康 の孫にあたり第2代水戸藩主の徳川光圀(とくがわ みつくに)が、1628年に生まれた日です。
光圀は、1628年に初代の水戸藩主徳川頼房の三男として生まれましたが、6歳のときには、江戸幕府3代将軍 徳川家光 の命令で、兄をさしおいて父のあとをつぐことが決まっていました。
少年時代の光圀は、やがては藩主になるというのに、学問をきらって、いつもわがまま勝手にふるまい、そばにつかえた家来たちを、たいへん困らせました。
しかし、17歳のときに中国の歴史書『史記』を読んでからは、急に、学問にはげむようになりました。伯夷(はくい)、叔斉(しゅくせい)という兄弟が、おたがいに父のあとをつぐのをゆずりあって美しく生きた話に胸をうたれ、自分のおこないを反省して、心を入れかえたのだといわれています。
1661年に33歳で藩主になった光圀は、学問と武芸を重んじて武士たちの心がまえを正させながら、領民たちのために、思いやりのある政治を進めていきました。
とくに、貧しい人びとへやさしい目を向け、年貢に困っている農民、身寄りのない老人、孤児、医者にかかれない病人たちへ、救いの手をさしのべました。また、領内をまわって、代官の不正をいましめ、苦しめられている町人や農民を助けました。
そのころ、将軍 徳川綱吉 がだした「生類憐みの令」で、人間の命よりも犬の命のほうがたいせつにされていましたが、光圀は、この悪法にも反対して、ばかげた政治から人びとを助けようとしました。光圀が、自分で犬を殺して、その皮を綱吉へ送りとどけたこともあったということです。
いっぽう『史記』を読んで、国の歴史のたいせつさを深く考えるようになっていた光圀は、29歳のときから生涯をかけて、おおくの学者とともに約2000年の日本の歴史をまとめる大事業にとりくみました。
この大事業は、光圀1代では、とても果たせませんでした。しかし、光圀の死ごも長くひきつがれ、明治に入った1906年に397巻の『大日本史』として完成されました。
光圀は、62歳で藩主をしりぞいて、水戸のはずれの西山荘に隠居しました。そして、そのご亡くなるまでのおよそ10年間を、村びとたちとまじわりながら、のどかにすごしました。
藩主時代の心やさしい政治と、西山荘での、いかにもご隠居らしい生活がもとになって、のちに、おもしろおかしい『水戸黄門漫遊記』が作りあげられたのです。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)26巻「新井白石・徳川吉宗・平賀源内」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「徳川光圀」をもとにつづりました。
「6月10日にあった主なできごと」
1863年 緒方洪庵死去…大阪に適々斎塾(適塾)を開き 福沢諭吉 や大村益次郎らを育てた教育者として、また蘭医として種痘を広め天然痘の予防に尽力した緒方洪庵(おがた こうあん) が亡くなりました。( 2008年6月10日ブログ 参照)
1920年 時の記念日…「日本書紀」によると 天智天皇(中大兄皇子) が「漏刻」という水時計を作り鐘を打った日と記されています。東京天文台と生活改善同盟会はこれを記念して「時間を大切にすることを、改めて考え直そう」と呼びかけ、6月10日を「時の記念日」に制定しました。