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武芸の達人・宮本武蔵

今日5月19日は、江戸時代初期の剣豪で、書画でも優れた作品を残した宮本武蔵が、1645年に亡くなった日です。

宮本武蔵は、江戸時代初めのころの剣豪です。生まれは美作国(岡山県)とも、播磨国(兵庫県)ともいわれています。父、新免無二斎は、田舎で道場を開く武芸者でした。

のちに郷里宮本村の名をとって宮本と名のるようになった武蔵は、幼いときから父に剣を習い、早くも12歳のときには新当流の有馬喜兵衛と試合をして打ち負かすほどの腕になりました。やがて武者修行をめざしたのか、あてもなく村をでました。

1600年、美濃国(岐阜県)で関ヶ原の戦いが起こりました。西軍の兵のなかに、足軽すがたの武蔵がいました。てがらをたてて、武士として出世することを夢見たのです。でも、石田三成 の西軍は、徳川家康 の東軍に負けてしまいました。

武士になりそこなった武蔵は、京都へ行きました。都で、剣の道で名をあげようと考えたのかもしれません。20歳でした。

京都へ入ったその年のうちに、武蔵の名は、大花火を打ちあげたように、都じゅうに広まりました。京都一の道場をかまえていた吉岡家に試合を申しこみ、その一族を、次つぎに打ちたおしてしまったからです。

そのごの武蔵は諸国をめぐり、槍術の宝蔵院、棒術の夢想権之助、くさり鎌使いの宍戸典膳などの達人と立ちあって、ことごとく勝ち、1612年には、九州の舟島(巌流島)で佐々木小次郎を、舟のかいで作った木刀で一刀のもとに打ちすえました。巌流島の戦いに勝ったときは28歳でしたが、武蔵は、このころまでに、およそ60回も他流試合をおこない、しかも、たったの一度も敗れたことがなかったということです。

武蔵は、剣法にすぐれていました。しかし、どんな試合にも勝つことができたのは「わたしが強かったのではなく、ほかの武芸者が兵法を知らなかったからだ」といっています。武蔵には、わざと約束の時間におくれて、相手を怒らせて勝った試合が、なん度もありました。これも、兵法のひとつだったのです。

30歳をすぎた武蔵は、他流試合をやめて、武士として仕官することを考え、江戸幕府にも、尾張藩(愛知県)や黒田藩(福岡県)にもはたらきかけました。でも、召しかかえられるときの禄高などで話がまとまらず、けっきょくは肥後藩(熊本県)にまねかれたのち、熊本城内で亡くなりました。62歳でした。

武蔵は、剣法だけではなく、絵、彫刻、書などにもすぐれていました。また肥後藩で書き残した『五輪書』は、説かれている兵法のするどさにあわせて、その文章のたくみさがたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「宮本武蔵」をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。

なお宮本武蔵は、吉川英治 により 1936年から3年以上にわたって新聞連載され、佐々木小次郎との巌流島の決闘までを描いた長編小説として一躍有名になりました。従来の講談の主人公的な存在に、求道者としての解釈を加えたことが成功したとの評価が高く、以後、これを原作、または参考にした映画やテレビドラマが、数多く制作され続けています。


「5月19日にあった主なできごと」

1560年  桶狭間の戦… 織田信長 は、尾張の国桶狭間 (おけはざま・現在の豊明市) で、わずか2千人ほどの兵力で4万5千の軍を率いる今川義元軍を打ち破って、いちやく戦国大名の中でも一目をおかれる存在になった日です。 ( 2008年5月19日ブログ 参照)

投稿日:2009年05月19日(火) 19:18

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)