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甘藷(サツマイモ)先生・青木昆陽

今日5月12日は、、江戸時代中期の儒学者・蘭学者で、日本じゅうにサツマイモを広めた功績者として有名な青木昆陽(あおき こんよう)が、1698年に誕生した日です。

1698年、江戸(東京)日本橋の魚問屋に生まれた昆陽は、若いころから学問がすきで、京都にのぼって儒学者伊藤東涯に学びました。東涯の学問は、古義学という学風で、実さいに役に立つ学問、実学を重んじていました。昆陽がのちに甘藷(かんしょ)の普及に努力したのも、東涯の研究のしかたを身につけていたからでしょう。

江戸に帰った昆陽は、小さな塾を開くかたわら、両親のめんどうをみていました。やがて父が死に、3年ごに母が死ぬと6年ものあいだ喪に服していました。そんな孝行心が学問とともに世に知られ、町奉行 大岡忠相 に認められるようになりました。

そのころの日本は、4、5年ごとに米のとれない年がくり返され、おおくの人が飢えに苦しんでいました。とくに1732年からよく年にかけて全国的な不作にみまわれました。各地で一揆がおき、飢え死にする人もかなりの数にのぼりました。

「そうだ、甘藷がいい。甘藷のおかげで薩摩(鹿児島)ではひとりも飢えた人はなかった。甘藷は荒れ地でもたくさんできる」

昆陽は、サツマイモについて、さらにくわしく調べました。そして、サツマイモの効用、作りかた、食べかたなどを記した『甘藷之記』を書いて、大岡忠相にさしだしました。忠相はすぐにそれを将軍 徳川吉宗 に報告しました。吉宗は感心して、さっそく昆陽に試作するように命じました。

小石川の薬園などでおこなわれた試作は成功し、その年の秋には、まるまると肥えたサツマイモがたくさんとれました。

「うーむ、これは味もよい。ぜひ国じゅうに広めてくれ」

吉宗の命をうけて昆陽は、実地の研究をもとにしたサツマイモのやさしい作りかたの本と種イモを、いたるところにくばって栽培をすすめました。昆陽が「甘藷先生」といわれるようになったのは、このためです。サツマイモが全国に普及すると、昆陽はその功績により、幕府の書物方となり、のちに書物奉行にまでなりました。一町人の子が、幕府の奉行にまでなったのですから、当時としては、たいへんな出世でした。

将軍吉宗は、さらに昆陽にオランダ語を学ぶことを命じました。昆陽は江戸にきたオランダ人から、いろいろなことを学び『和蘭文訳』などを書いて、蘭学がさかえるもとをひらきました。これらの本は、のちにオランダ医学書をほん訳した 杉田玄白 や前野良沢らの基礎となっています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)28巻「塙保己一・良寛・葛飾北斎」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「青木昆陽」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。


「5月12日にあった主なできごと」

1820年 ナイチンゲール誕生…「クリミヤの天使」「愛の天使」と讃えられ、近代看護学の普及に尽力した ナイチンゲール が誕生した日です。この日は、国際的にも「ナイチンゲール・デー」 と制定され、1991年から日本でも「看護の日」 とされています。( 2008年5月12日のブログ 参照)

1939年 ノモンハン事件…日本軍が実質的に支配する満州国とモンゴルの国境線にあるノモンハン付近では、両国の主張する国境線の違いから、ときおり小規模な紛争をくりかえしてきました。しかし、この日の紛争は大規模なもので、日本とモンゴル、モンゴルと軍事同盟をむすんでいるソ連軍がからんで長期戦となりました。戦闘は9月まで続き、日本軍は優秀な機械化部隊によるソ連軍の援軍に苦戦し、戦没者数を1万8000人ともいわれる敗北をきっしました。ソ連側も2万人を越える死傷者があったようで、同年9月15日に休戦協定がむすばれました。

投稿日:2009年05月12日(火) 09:08

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)