今日5月13日は、ノルウェーの科学者でありながら北極探検で多くの業績を残し、政治家として国際連盟の結成にも力をつくしたナンセンが、1930年に亡くなった日です。
1893年6月、ノルウェーのクリスチアニア(いまのオスロ)港から、フラム号という1せきの船が、北極へ出発しました。乗りこんでいるのは、31歳のナンセンと12名の探検隊です。
おわんを細長くしたような、きみょうな形のフラム号は、流氷にぶつかってもこわれないように造られています。シベリアの沖から北極を通ってグリーンランドへ流れる海流に乗り、流氷といっしょに北極へ向かい始めました。
ところが、おそろしいほど厚い流氷にかこまれてしまった船は、1年たっても、ほんのわずかしか進みませんでした。
「このままだと、北極へたどり着くのはむりかもしれない」
ナンセンはフラム号に別れをつげ、隊員のヨハンセンとふたりだけで、からだのしんまで凍りつくような寒さと闘いながら、氷原を犬ぞりで走りました。しかし、20日もすると、人間も犬も、すっかりつかれはててしまいました。
ナンセンは、北緯86度14分の地点に国旗を立てて、ひき返すことにしました。白クマにおそわれたり、食べ物がなくなったり、おおくの苦しみをのりこえてノルウェーにもどったのは、クリスチニアの港を出てから3年2か月ののちでした。
この探検で、北極点への夢は果たせませんでしたが、北極奥地の未知のすがたを、初めて世界に知らせました。
1861年、ノルウェーに生まれたフリチョフ・ナンセンは、少年時代から、スキーで野や山をすべり歩くのがすきでした。
大学では動物学を学び、卒業ごは、北極海へアザラシの調査に行きました。そして、しだいに雪と氷の世界に心をひかれるようになり、26歳のときに成功した世界最大の島グリーンランドの横断につづいて、フラム号で北極にいどんだのです。
フラム号をおりてからは、国際海洋研究所の所長をつとめ、北の海の調査や研究に、大きな業績を残しました。
40歳をすぎてからは、人類全体の幸福を願う人道主義にもえて、政治の世界でも活やくするようになりました。1914年に始まった第1次世界大戦では、戦争のひさんさを知りました。
戦争が終わると国際連盟の結成に力をつくし、その夢を1920年に果たしてからは、シベリアに送られている数10万人の捕りょと、ききんで苦しんでいるロシアの難民の救済に、全力をそそぎました。人類愛に根ざしたはたらきがたたえられ、1922年にノーベル平和賞がおくられたとき、ナンセンは61歳でした。
フラム号のフラムは、前進という意味です。ナンセンは、その船の名のとおり、勇気と愛で前進をつづけた人でした。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)14巻「エジソン・ゴッホ・シートン」の後半に収録されている7編の「小伝」の一つ 「ナンセン」 をもとにつづりました。約100名の伝記に引き続き、2月末より300余名の「小伝」を公開しています。
「5月13日にあった主なできごと」
1401年 日明貿易…室町幕府の第3代将軍 足利義満 は、民(中国)に使節を派遣し、民との貿易要請をしました。民は、遣唐使以来長い間国交がとだえていた日本との貿易を認めるかわりに、民の沿岸を荒らしまわっていた倭寇(わこう)と呼ばれる海賊をとりしまることを要求してきました。こうして、日明貿易は1404年から1549年まで十数回行なわれました。貿易の際に、許可証である勘合符を使用するために「勘合貿易(かんごうぼうえき)」とも呼ばれています。