今日1月20日は、『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレーが、1875年に亡くなった日です。
ジャン・フランソア・ミレーは、1814年、フランス西北部の小さな村で生まれました。
家は、まずしい農家でした。しかし、畑しごとをしながら教会の合唱団の指揮者をつとめる父や、神を深く信仰する祖母などにかこまれて、ミレーは、そぼくな田園とはたらく農民たちを愛する人間に育っていきました。
子どものころから絵の才能にめぐまれ、18歳のとき画家のもとへ弟子入りしました。そして、23歳になると、近くの市から奨学金をもらってパリへ出ました。ところが、はなやかな都会の生活は、どうしてもすきになれませんでした。そのうえ、心をうちこめる絵もかけず、結婚してからは、裸体画や看板をかいて、その日の生活をつづけるよりしかたがありませんでした。
ある日、自分の絵を飾った店のまえを通りかかったとき,ふたりの男の話し声が耳にはいりました。
「あの裸婦の絵は、だれの絵だろう」
「ミレーだよ。あんな絵ばかりかいているんだ」
これを聞いたミレーは、はずかしさと悲しさに、からだをふるわせました。そしてこのとき、これからはお金のために絵をかくのをやめて、どんなに貧しくても、ほんとうの自分の絵をかいていこうと決心しました。
パリのはずれの、バルビゾンというしずかな村に移り住んだミレーは、農村の人びとの生活を描きはじめました。
しかし、フランスじゅうに明るい美術の花がさきはじめていた時代に、神への祈りをこめたミレーの暗い絵は、展覧会には入選しても、買ってくれる人はほとんどありませんでした。
貧しさのうえに、ときにはすっかり自信を失ってしまい、自殺を考えたこともありました。でも、心の強い妻や、思いやりのある友だちにはげまされながら野や畑にでて絵をかきつづけ、やがて『種まく人』や『木をつぐ男』などの作品を、つぎつぎに発表していきました。
ところが、農民画家として名声があがり、生活もやっと楽になったときには、からだはすっかり結核におかされ、苦しかった生涯を60歳でとじてしまいました。
農民たちの心を深くみつめた名画のかずかずは、ミレーの死後、世界の人びとにますます愛されるようになり、フランスのルーブル美術館 (現在はオルセー美術館) に飾られた『晩鐘』の前には、この名画をたたえる人が、いつもたえることがありません。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)10巻「リンカーン・ダーウィン・リビングストン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
なお、ミレーにつきましては、このブログの 2007年7月13日号「山梨県立美術館にあるミレーの代表作」 2007年10月4日号「ミレーの晩鐘」 でも紹介しています。あわせて参考にしていただければ幸いです。
「1月20日にあった主なできごと」
1926年 ダイヤル式自動電話…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。
1936年 救急車…警視庁消防部が東京都内に救急車6台を配備して、救急業務を開始しました。呼び出しの119番もこの時から始まりました。
1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。