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越後の虎・上杉謙信

今日1月21日は、戦国時代に、武田信玄、北条氏康、織田信長らと合戦を繰りひろげた越後の武将・上杉謙信(うえすぎ けんしん)が、1530年に生まれた日です。自ら毘沙門天の生まれ変わりと信じ、5回にも及んだ武田信玄との川中島の合戦は、よく知られています。

1561年9月9日の夜のことです。妻女山(さいじょさん・長野県)に陣をしいて敵のようすを見つめていた上杉謙信は、声をおし殺して家来に命じました。敵は武田信玄です。

「信玄のやつめ、夜明けとともに討ってくるにちがいない。よし、裏をかいてやれ。それっ、かがり火をもっとたけ!」

かがり火を2倍、3倍にふやすと、上杉軍は静かに山をくだりました。山の上に兵が集まっていると見せかけて千曲川を渡り、夜明けとともに、信玄の陣におそいかかる作戦です。

東の空が白みはじめたときは、武田軍は目の前です。やがて合図とともに敵陣へなだれこみました。ふいをおそわれた武田軍は、次つぎにくずれてゆきます。川中島での4度めの大きな戦いでした。

この戦いで敵の本陣におどりこんだ謙信は、馬上から信玄に切りかかり、それを軍配でうけとめた信玄に傷を負わせたと伝えられています。好敵手、謙信と信玄の一騎討ちです。

生涯を「戦場こそ生きがいだ」と心に決めて生きた上杉謙信は、越後(新潟県)の春日山城主長尾為景の次男として生まれました。父の死ご、長尾家をついだのは兄の晴景でした。ところが謙信は、意見があわなくなった晴景と争い、この兄を隠居させて、自分が城主になりました。18歳でした。

2年後、姓を上杉と改めました。守護の上杉定実(さだざね)が、謙信に上杉家をついでほしいと遺言して死んだからです。

「戦場こそ生きがい」の生涯は、22歳のときに始まりました。北条氏に追われた関東管領上杉憲政(のりまさ)を助けることから起こり、その後17年もつづいた、北条氏との戦いです。謙信は、越後を守りながら軍を関東へ進め、小田原城を攻めました。

また、その間に、越中(富山県)における一向宗信徒の反乱にも兵をだしました。武田信玄との11年間5回にわたる川中島での戦いも、北条氏とにらみあいをつづけていたあいだの戦です。信玄との戦いは、けっきょく勝負がつきませんでした。

謙信は、戦のじょうずな武将でした。戦場で「毘(び)」の文字が書かれた旗を見ると、敵は、ただそれだけでおそれをなしたといわれています。また、情深く正義感の強い武将だったともいわれ、戦場で塩がなくて困っている敵の信玄に、塩をおくったという有名な話が伝わっています。

謙信は、信玄が亡くなって5年後に病気でたおれ、1578年、48歳で亡くなりました。織田信長を討つ準備を進めていた最中のことでした。戦国武将謙信の夢も、天下を取ることだったのです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)24巻「武田信玄・織田信長・豊臣秀吉」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「1月21日にあった主なできごと」

1793年 ルイ16世処刑…1774年にフランス国王となったルイ16世は、当初は人気がありましたが、1776年のアメリカ独立戦争を支援したことなどから財政が苦しくなって1789年にフランス革命を招き、前年に王権を停止され、この日ギロチンで処刑されました。 

1866年 薩長同盟…これまで抗争をくりかえしてきた薩摩藩と長州藩は、この日坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、薩摩の西郷隆盛らと長州の桂小五郎(のちの木戸孝允)が会談、協力して倒幕し、新国家建設を進めることを誓いました。

投稿日:2009年01月21日(水) 09:03

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)