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仏像彫刻の雄・運慶

今日12月11日は、国宝となっている東大寺南大門の「仁王像」などの仏像彫刻を残した、鎌倉時代初期に活躍した仏師・運慶(うんけい)が、1223年に亡くなった日です。

仏像をつくる人の事を仏師といいます。運慶は、鎌倉時代初めのころの仏師です。生まれた年はわかりません。父の康慶も、力強い仏像をつくって名を高めた、すぐれた仏師でした。

運慶は、幼いころから、父の仕事を見て彫刻に心をひかれ、父から仏教の話を聞いて仏をうやまう心を深め、さらに、寺院をあるいて仏教美術の世界にひたりながら、成長しました。

25歳をすぎたころ、1年がかりで奈良円成寺の『大日如来像』を完成して、仏師の道をあゆみはじめました。ところが、それからまもなく、運慶の心を暗い谷底へつきおとす事件がおこりました。1180年に、源氏と平氏の争いが始まり、平重衡が放った火で東大寺、興福寺が焼けおちて、数えきれないほどの仏像が灰になってしまったのです。運慶は、全部で8巻の法華経を書き写して、悲しみと怒りをしずめました。そして、燃えてしまったすばらしい仏像を思い返しながら、心にちかいました。

「戦乱で失った仏像以上のものを、自分の力でつくろう」

1185年に平氏が壇ノ浦の戦いでほろび、やがて、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、30歳をこえた運慶は、すさまじいいきおいでのみをふるいはじめました。

幕府が生まれて武士中心の社会になり、人びとが求めたものは、美しくやさしい仏像よりも、生き生きした男性的な仏像でした。さいわい、運慶が父からうけついでめざしていたのも、血がかよっているような、たくましい仏像です。

運慶は、幕府の政治をつかさどる北条時政の依頼をうけて、伊豆の願成就院の『不動明王』『毘沙門天』などの像をつくり、それまでの藤原時代にはなかった、新しい仏像彫刻をきずきあげました。つねに、いまにも動きだすような仏像をつくろうとした運慶は、衣のひだひとつ彫るのにも、いく日も全力をうちこんだということです。

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1203年には、兄弟弟子の快慶とのみをきそって、東大寺南大門の『仁王像』を彫りました。仏の道にそむく者には、ほんとうにおそいかかってきそうな、高さ8メートルの巨像です。また、1208年からは、10数人の仏師をともなって興福寺へ入り、およそ3年のあいだに、日本の仏像彫刻の最高傑作とたたえられるほどの作品を、次つぎに完成させました。しかし、いまは、そのおおくが残ってはいません。

運慶は、父に学び、父をのりこえました。でも、のちに、法印という僧としての最高の位をさずけられても、父を師としてあがめつづけたということです。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 21巻「平清盛・源頼朝・源義経」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「12月11日にあった主なできごと」

1485年 山城国一揆…日本最大の戦乱といわれる応仁の乱(1467-77)の主な原因は、8代将軍足利義政に仕える守護大名畠山持国の実子義就(よしなり)と、養子政長の家督争いでした。この争いが、乱後も続いたため、この日住民たちは大規模な一揆をおこし、平等院に集合して、8年もの間、山城国の政治を自治的に運営しました。

1688年 名誉革命…イングランド王ジェームズ2世を王位から追放し、ジェームズ2世の娘メアリーとその夫でオランダ統領のウィリアム3世をイングランド王位に即位させたクーデター。この日、議会から追われたジェームズ2世は、フランスに逃げこみ、流血を見ずに変革が行なわれたことから「名誉革命」と呼ばれ、イギリスの立憲君主制が確立されるキッカケとなりました。

1946年 ユニセフ創立…この日の国連総会の決議により、ユニセフ(国際連合児童基金)が設立されました。世界中の飢餓や貧困に苦しむ子どもたちや妊産婦に対し、直接の援助を目的とするものです。

投稿日:2008年12月11日(木) 09:11

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なかなかおもしろかった。 仏像にも時代や流派があるのね。 新しい趣味になりそう [詳しくはこちら]

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)