児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  『平和祈念像』 の北村西望

『平和祈念像』 の北村西望

今日3月4日は、長崎平和公園にある『平和祈念像』をはじめ、『光にうたれる悪魔』『笑う少女』などの作品で知られる彫刻家の北村西望(きたむら せいぼう)が、1987年に亡くなった日です。

1884年、いまの長崎県南島原市に生まれた北村西望は、尋常小学校を卒業後に臨時教師となりました。1901年正教員をめざして長崎師範学校で学びますが、風土病にかかって長期療養中に彫刻家を志すようになり、1903年京都市立美術工芸学校(現・京都市立芸術大学)に入学し、さらに卒業後の1907年に上京すると、東京美術学校(現・東京芸術大学)彫刻科に入学しました。翌年の第2回「文展」に『憤闘』が初入選をはたし、1912年同校を首席で卒業しました。

その後召集令状を受けて久留米の工兵大隊に入隊しますが、1915年に兵役除隊すると本格的に彫刻の道へ進み、初期の代表作『怒涛』を制作。この作品を第9回文展に出品したところ最高賞(二等賞)をうけ、翌1916年の第10回文展でも『晩鐘』が特選主席をうけると「力強い男性ブロンズ像作家」としていちやく頭角をあらわしました。その後も文展の常連となって『光にうたれる悪魔』『将軍の孫』などを次々に発表。1919年には帝国美術院展彫刻部審査員となって、長くその地位にありました。1921年には、母校東京美術学校の塑造部教授に任命され、1931年には京都市立美術工芸学校の教諭もつとめています。しかし、戦争がはげしくなると、銅像の制作はむずかしくなり、1944年には、朝倉文夫とともに銅像救出委員会を組織して、銅像供出の阻止運動を行っています。同年東京美術学校を退職すると、埼玉県秩父地方に疎開しました。

なんといっても北村西望の代表作は、1955年に発表された大作『平和祈念像』でしょう。1950年に、長崎市から平和祈念像の建設の相談をうけると、井の頭自然文化園の土地を東京都から借りうけてアトリエを建設、5年間をかけて10mを超えるこの作品の制作に打ちこみました。そして1955年、長崎市の平和公園にある『平和祈念像』が同年8月に除幕式がおこなわれ、いまも世界平和を願う人々のシンボルとなっていることはよく知られています。

この作品について西望は、「あの悪魔のような戦争 身の毛もよだつ凄絶悲惨 肉親を人の子を かえりみるさえ堪えがたい真情 (中略) 右手は原爆を示し左は平和を 顔は戦争犠牲者の冥福を祈る……」と、記しています。なお、象の花子さんのいる動物園として有名な「井の頭自然文化園」には、北村西望の「彫刻園」があり、3棟の建物には、長崎の平和祈念像が制作されるまでのアトリエ、小さな石膏の段階から実物大までの祈念像原型ほか、思わず笑いをさそう『将軍の孫』『笑う少女』『猫ー防衛』などたくさんの作品が収録され、中庭の雑木林には『怒涛』『晩鐘』『光にうたれる悪魔』など38作品が転々と配置され、親しまれています。

なお、西望は1958年に文化勲章を受け、日展の名誉会長などの重責を歴任し、満102歳の長寿をまっとうしました。日本彫刻会ではその功績を称え、同会展覧会の最優秀作品に「北村西望賞」の名を冠しています。また、生地に近い島原城址には「西望記念館」があります。


「3月4日にあった主なできごと」

1053年 平等院鳳凰堂…藤原頼通は、父藤原道長からゆずり受けていた宇治の別荘を「平等院」とし、極楽浄土といわれる鳳凰堂(阿弥陀堂)を完成させました。

1697年 賀茂真淵誕生…江戸時代の中ごろに活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が生まれました。

1788年 寛政の改革…江戸幕府11代将軍家斉は、白河藩主として評判の高かった松平定信を老中首座・将軍補佐とし、定信は「寛政の改革」を実施して幕政の改革をはじめました。8代将軍吉宗の「享保の改革」をめざしたものでしたが、あまりに堅苦しいものだったため、成功にはいたりませんでした。「白河の清きに魚の住みかねて元の濁りの田沼恋しき」と田沼意次時代を懐かしむ狂歌に詠まれるほどでした。

1878年 有島武郎誕生…絵のぐをぬすんだ生徒と、その生徒をやさしくいましめる先生との心のふれあいをえがいた児童文学『一房の葡萄』や『カインの末裔』『生まれ出づる悩み』『或る女』など社会性の高い作品を数多く残した白樺派の作家有島武郎が生まれました。
投稿日:2014年03月04日(火) 05:01

 <  前の記事 「加賀百万石の祖」 前田利家  |  トップページ  |  次の記事 ボルタの電池  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3281

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)