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「加賀百万石の祖」 前田利家

今日3月3日は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、豊臣政権の五大老の一人・加賀藩主前田家の祖として知られる前田利家(まえだ としいえ)が、1599年に亡くなった日です。

1538年、尾張国愛知郡(いまの名古屋市)の土豪前田利春の次男として生まれた前田利家(幼名・犬千代のちに孫四郎、又左衛門を名のる)は、1551年に織田信長に小姓として仕えました。若いころの利家は、勇猛でしたが短気でけんか早く、19歳のとき、信長お気に入りの若者を切り殺したことで追放されたこともありました。3年後に許されて再び仕え、1560年「桶狭間の戦い」をはじめ、美濃攻めに参加するなど槍の名手として数々の手柄をたてて、主力部隊に編入されました。1569年には、信長のとりはからいにより、兄にかわって前田家を継いでいます。

その後も、姉川の戦い(1570年)、長篠の戦い(1575年)、10年にもわたる石山戦争などで次々と功績をあげ、近江長浜城主、越前府中城主、能登七尾城主などをつとめ、柴田勝家を助けながら各地を転戦し、能登一国を拝領して大名となります。

1582年に信長が、本能寺の変により明智光秀に討たれると、織田の後継者を決する「賤ヶ岳の戦い」(1583年)では、はじめ柴田勝家につくものの、やがて羽柴(のちの豊臣)秀吉に味方して勝利し、以後、秀吉の天下統一に協力したことで、加賀・越中を与えられて82万石の大大名となり、加賀藩百万石の礎をきずきました。

秀吉の利家への信頼はとくにあつく、徳川家康、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家とともに豊臣政権五大老のひとりに列せられ、豊臣秀頼が生まれるとその守役を任じられて大坂城へ入るほどでした。1598年秀吉の死後、家康と石田光成らの対立が顕在化すると、多くの大名に信頼される存在だった利家は、両者の対立をうまく仲裁しましたが、秀吉の死の8か月後に、病死してしまいました。

政局はいっきに緊迫し、天下分け目の戦いといわれる「関ヶ原の戦い」がおこるのは、利家の死後1年半後のことでした。


「3月3日の行事」

ひな祭り…旧暦ではこの頃に桃がかわいい花を咲かせるために、「桃の節句」ともいわれ、女の子のすこやかな成長を願って「ひな人形」を飾ります。その起源は、むかし中国で重三(3が並ぶ)の節句と呼ばれていたものが、平安時代に日本に伝わってきたものです。貴族のあいだだけで行なわれていましたが、江戸時代になって一般の家庭にも広がるようになりました。


「3月3日にあった主なできごと」

1847年 ベル誕生…電話を発明し、事業家として成功したベルが生まれました。

1854年 日米和親条約…アメリカのペリー提督が、前年6月につづき7隻の軍艦を率いて再び日本へやってきて、横浜で「日米和親条約」(神奈川条約)を幕府と締結しました。これにより、下田と函館の2港へ入ることを認めたため、200年以上続いた鎖国が終わりました。

1860年 桜田門外の変…大雪が降るこの日の朝9時ごろ、江戸城外桜田門近くで、江戸城に向かう大老の井伊直弼と約60人の行列に、一発の銃声が響きました。これを合図に水戸浪士ら18名が行列に切り込み、かごの中の井伊の首をはねました。浪士たちは井伊大老による安政の大獄で、水戸藩主をはじめ多数の処罰を恨んだ行動でした。
投稿日:2014年03月03日(月) 05:38

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)