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『富士案内』 の野中到

今日2月28日は、妻とともに、富士山頂で最初の越冬観測を試みたことで知られる気象学者の野中到(のなか いたる)が、1955年に亡くなった日です。

1867年、いまの福岡市に生まれた野中到(本名・至)は、医学をめざして大学予備門(のちの東大教養学部)に入学しましたが、当時の日本が日清戦争に勝利して士気盛んな時期であったことから1889年に医学の道を断念し中退、富士山山頂で越冬気象観測を行って、時代の流れに応えようと決心しました。

そして1895年の1月と2月、御殿場口より風雪に苦しみながらも富士山頂観測準備のため、2度の冬季登山を行い、8月末には、私財をつぎこんで買いこんだ資材をひとりで富士山頂の最高地点剣が峰に運びあげ、9月末に日本初の富士気象観測所を建設しました。さらに、同年10月1日から12月まで82日間、1日12回、妻の千代子と共に気象観測を続けたのでした。

ところが、栄養失調のために二人は倒れ、当時の文部大臣の命令で、中央気象台の技師らが救援にむかい、12月22日にかつぎおろしたことで、越冬観測は失敗に終わりました。こうして挫折はしたものの、夫婦による富士越冬観測の試みは大きな反響を呼び、翌1896年には早くも伊井蓉峰により劇化され、落合直文は登山記録をもとにした実録小説『高嶺の雪』を刊行しました。1901年、千代子が書き続けた日誌(芙蓉日記)も収録した野中の著書『富士案内』が刊行されると、小学校の教科書にも載るようになり、夫妻の「富士気象観測」は、郡司成忠の「千島探検」、福島安正の「シベリア単独横断」とともに、明治の3大冒険の一つに数えられるようになりました。

1912年に野中は、再挑戦をしようと富士山頂付近に、第2観測所を建設しますが、観測を再開するまでには至りませんでした。しかし、野中の業績は晩年の1948年、橋本英吉による『富士山頂』が刊行され、この著作をもとに同年に夫妻役藤田進・三宅邦子で映画化され、没後の1967年にも映画化されています。夫妻が全国的によく知られるきっかけになったのは、1971年に刊行された新田次郎の小説『芙蓉の人』で、1973年にNHKでテレビドラマ化され、夫妻役長門裕之・八千草薫は大きな話題となり、1977年には東京12チャンネル、1982年にもNHKでテレビドラマ化されています。


「2月28日にあった主なできごと」

1533年 モンテーニュ誕生…名著『随想録』の著者として、今も広く読まれ評価の高いフランスの思想家モンテーニュが生まれました。

1546年 ルター死去…免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたドイツの宗教家ルターが亡くなりました。

1591年 千利休自刃…織田信長や豊臣秀吉に仕え、わび茶を大成し、茶道を 「わび」 「さび」 の芸術として高めた千利休が、秀吉の怒りにふれて切腹させられました。

1638年 天草四郎死去…島原・天草地方のキリシタンの農民たちは、藩主の厳しい年貢の取立てとキリシタンへの弾圧を強めたことから、少年天草四郎を大将に一揆を起こしました(島原の乱)。島原の原城に籠城して3か月余り抵抗しましたが、幕府の総攻撃を受けて、四郎をはじめ37000人が死亡しました。

1811年 佐久間象山誕生…幕末の志士として有名な吉田松陰、坂本龍馬、勝海舟らを指導した開国論者の佐久間象山が生まれました。

1972年 「浅間山荘」強行突入…連合赤軍のメンバーが19日に軽井沢にある「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもっていましたが、この日機動隊が強行突入、激しい銃撃戦の末に人質を解放して犯人5名を逮捕、隊員2名が殉職しました。突入の様子はテレビで生中継され、視聴率は総世帯の9割近くにも達し、今なおこの記録は破られていません。
投稿日:2014年02月28日(金) 05:43

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)