児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  「だるま蔵相」 高橋是清

「だるま蔵相」 高橋是清

今日2月26日は、大正・昭和初期に6内閣の大蔵大臣(蔵相)をつとめ、短期間ながら内閣総理大臣をつとめた政治家の高橋是清(たかはし これきよ〉が、1936年の「二・二六事件」で暗殺された日です。

1854年、江戸幕府の御用絵師の私生児として生まれた是清(幼名・和喜次)は、生後まもなく仙台藩の下級武士高橋家の養子となり、養祖母の愛情に育まれました。運よく仙台藩の留守居に才能を見出されて宣教師の夫人から英語を学んだことで、1967年14歳のとき、藩費でアメリカに留学しました。ところが、滞在先の主人に3年間の奴隷として売られたことに気づいた高橋は、苦労してこれを清算して翌年に帰国、森有礼の世話で官立教育機関「大学南校」に入り、英語教官となりました。その後、大阪英学校校長、東大予備門教員をへて、1881年明治新政府の農商務省に入ると、1987年には昇進して初代特許局長になっています。

生来の冒険心旺盛な性格から同僚の熱心な勧めで農商務省を退官し、1990年にペルーのカラワク銀山開発のために現地をおとずれたところすでに廃坑、詐欺にかかったことがわかって帰国しました。浪人生活後の1992年に日本銀行に入ると、めきめき頭角をあらわし、1894年にはじまった日清戦争時には戦時資金調達に業績をあげたことで翌年に横浜正金銀行支配人となり、1899年には日銀副総裁に出世します。1904年にはじまった日露戦争時にはロンドンに渡り、1億3千万ポンドという多額の外国債の募集に成功して名声をあげ、翌年には貴族院議員に選ばれ、男爵を授けられました。

1911年には日銀総裁にのぼりつめ、1913年に山本権兵衛内閣の蔵相になって政友会に入党した高橋は、1918年には原敬内閣の蔵相となり、原が暗殺されたことで、1921年に第20代内閣総理大臣となりました。しかし、政友会内部の対立のために半年後に総辞職しました。1924年の第2次護憲運動の際には貴族院議員と爵位を返上して行動し、衆議院議員に当選。政友会、憲政会、革新会の護憲三派が大勝した内閣の農商務大臣となりましたが、まもなく政友会総裁を田中義一にゆずって、政界を引退しました。

ところが1927年、関東大震災手形の処理めぐって金融恐慌が勃発すると、田中義一内閣に請われて蔵相となり、平時では世界でもめずらしい支払猶予令を発して財界の救済にあたりました。その後も犬養毅、斉藤実、岡田啓介内閣の蔵相をつとめましたが、予算編成をめぐって台頭する軍部と対立することが多くなり、この日におこった「二・二六事件」(陸軍の青年将校ら1400人が首相官邸などを襲撃する事件)で、私邸を襲われた高橋が、銃弾と軍刀で惨殺されてしまいました。この事件は、円満な人がらで「だるま蔵相」「だるま翁」の愛称で親しまれてきた83歳の高橋の死であるとともに、国民経済がバランスを失って崩壊へと踏みだすはじまりでもありました。


「2月26日にあった主なできごと」

1609年 琉球征伐…薩摩藩の藩主島津家久は、この日大軍を率いて琉球王国に攻め入り、4月までに征服しました。当時琉球王国は、中国や東南アジアと日本を結ぶ中継貿易で栄えていましたが、これ以後は、薩摩藩が独占することになりました。

1802年 ユゴー誕生…フランス文学史上屈指の名作といわれる『レ・ミゼラブル』を著わした作家のユゴーが生まれました。

1815年 ナポレオンがエルバ島脱出…ヨーロッパ同盟軍に破れ、エルバ島に流されていたナポレオンは、この日の夜7隻の船に大砲を積みこんで島を脱出、皇帝に返り咲きました。しかし「100日天下」に終わり、セントヘレナ島に幽閉され、その地で亡くなりました。
投稿日:2014年02月26日(水) 05:30

 <  前の記事 「新劇王」 テネシー・ウィリアムズ  |  トップページ  |  次の記事 「動物行動学」 のローレンツ  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3277

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)