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「桃山時代の代表画家」 長谷川等伯

今日2月24日は、『楓図』『松林図屏風』『大涅槃図』などを描き、狩野永徳らと安土・桃山時代を代表する画人といわれる長谷川等伯(はせがわ とうはく)が、1610年に亡くなった日です。

1539年、能登国七尾(いまの石川県七尾市)の戦国大名畠山氏に仕える下級家臣の子として生まれた等伯(幼名・又四郎)は、幼年期に染物屋を営む長谷川家の養子になりました。養父が仏画を描いていたことから、やがて父から手ほどきをうけ仏画や肖像画などを描くようになると、京都と七尾を往復し京の町衆から絵画の技法や図様を学びました。

1571年ころ、養父母が亡くなったのを機に上洛し、当時日本画の主流だった狩野派の門をたたいてその様式を学ぶものの、狩野派に対し強烈なライバル意識を持ちます。こんどは京都と堺を往復しながら千利休ら堺で活躍する茶人たちから中国絵画の知識を吸収し、独自の画風を確立していきました。のちに、等伯が語ったことを京都・本法寺住職の日通上人が書きとめた『等伯画説』によると、雪舟系の画家等春に学び、雪舟の5代目を自称したことや、雪舟の学んだ宋・元画、特に南宋の牧谿(もっけい)に学ぶことが多かったと記されています。また江戸時代の中ごろに書かれたという資料『本朝画史』には、等伯の画風は、「豪気な感じがあふれ、激しい筆の動きによる強い線、思い切った構図に特色がある」と高く評価しています。

現在確認される作品は約80点、秀吉が幼くして亡くした愛児捨松追善のために建立した祥雲寺の金碧障壁画(その一部『楓図』は京都・智積院蔵)と、『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が代表作といわれています。『楓図』は絢爛豪華な桃山美術を代表する作品とされ、『松林図屏風』はわが国の水墨画の最高傑作といわれています。そのほか、京都竜泉庵の『枯木猿猴図』や金地院、真珠庵などの襖絵、『千利休像』『武田信玄像』などの肖像画などがあり、そのほとんどが重要文化財となっています。とくに京都・本法寺にある『大涅槃図』は、縦10m横6mもある大画面に、亡くなった釈迦のまわりにたくさんの弟子たちばかりでなく、象や獅子、鳥やうさぎなど大小さまざまな動物たち、草木までもが悲しみにくれている姿には圧倒されます。才能は等伯以上といわれた息子久蔵と、庇護者だった千利休を失った悲しみがこめられているこの絵は必見で、ふだん展示されているのは実物大の複写ですが、年に何回かは実物が展示されるそうです。

晩年の等伯は、信仰する法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により1604年には法橋、翌年には法眼に叙せられ、本法寺の檀家を代表する「大檀越」となり、京都における有力者となっています。


「2月24日にあった主なできごと」

1815年 フルトン死去…1807年、ハドソン川で蒸気船の試運転に成功したアメリカの技術者で発明家のフルトンが亡くなりました。、

1873年 キリスト教禁制撤廃…1612年以来禁止されてきたキリスト教を、明治政府も国禁にしてきましたが、この日「キリスト教国禁」の高札を撤去。欧米諸国の非難や、条約改正を妨げる一因をなしていることを知った政府は、キリスト教を黙認する決断をしました。

1933年 国際連盟総会で抗議の退場…日本の国際連盟代表の松岡洋佑ら代表団は、スイスのジュネーブで開かれた臨時総会で、議場からいっせいに退場しました。前年に日本が中国東北部に建設した「満州国」を国際連盟が認めず、軍を引き上げるよう求める勧告案を、賛成42、反対1、棄権1で採決したことに抗議したものです。この総会の後日本は、3月27日、正式に国際連盟を脱退、国際社会の中で孤立する道を歩みはじめました。
投稿日:2014年02月24日(月) 05:35

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)