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「日本ロケット開発の父」 糸川英夫

今日2月21日は、ペンシルロケットなどを開発した航空・宇宙工学者の糸川英夫(いとかわ ひでお)が、1999年に亡くなった日です。

1912年、いまの東京・西麻布に教師の子として生まれた糸川英夫は、1935年東京帝国大航空学科を卒業後中島飛行機に入社すると、独創的な着想をもりこんで、九七式戦闘機、二式単座戦闘機「鍾馗(しょうき)」などの名機の設計に関わりました。とくに一式戦闘機「隼」は、太平洋戦争中には陸軍の主力戦闘機として使われたことはよく知られています。いっぽう独力でジェットエンジンの研究や開発をおこなったところ、多くの批判をあびたことから、1941年11月、帝国陸軍の命令のままに動かされることのない東京帝国大第二工学部助教授に就任、戦後は脳波測定器などを開発し、1948年には教授になりました。

1954年、東大生産技術研究所内に「航空及び超音速空気力学(AVSA)研究班」を組織すると、1955年3月に全長わずか23cmながら「ペンシルロケット」の水平発射実験に成功し、わが国の宇宙開発の基礎をこしらえました。さらに糸川は、より大きな「ベビーロケット」「カッパロケット」の発射も成功させ、1960年代はラムダロケット、ミューロケット、日本最初の人工衛星「おおすみ」の開発にも関わりました。

1967年、東大を辞職して組織工学研究所を設立すると、宇宙開発の前線から去るものの、航空・宇宙工学の研究のほか音響工学、医療電子機器工学システムなど広いジャンルの研究にかかわりながら、若い研究者を育て、一般の人たちへの啓蒙にもつとめました。著書の『逆転の発想』がベストセラーになったほか、日本の将来を予測した小説『ケースD(最悪パターン)―見えない洪水―』などを発表しています。

1976〜83年まで日本の短波放送受信愛好者団体(BCL連盟)の会長職と「月刊短波」の発行人を務めたり、シカゴ大学の客員教授なども歴任しながら、民族と科学、宗教問題にも取り組みました。

なお、2003年には小惑星のひとつが糸川の名にちなんでイトカワと命名され、探査機「はやぶさ(「隼」にちなむ名)」がこの小惑星を探査しました(2010年に「はやぶさ」は地球に帰還)。また2006年には早稲田実業校門前に糸川のペンシルロケットの実験から50周年を記念した「日本の宇宙開発発祥の地記念碑」が建立され、2012年には、糸川の生誕100周年を記念して鹿児島・内之浦宇宙空間観測所内に銅像が建立されています。


「2月21日にあった主なできごと」

1911年 対米不平等条約改正…江戸幕府は1859年、アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの間で通商条約を結びました。しかし、関税自主権がない上、領事裁判権を認めた不平等なもので、この改正が明治政府の課題でもありました。1894年に陸奥宗光外相がイギリスとの改正に成功していましたが、この日小村寿太郎外相はアメリカとの修正条項に調印。他国との条約も順次修正され、条約改正が達成されました。

1936年 美濃部達吉負傷…「天皇主権説」に対し、「天皇機関説」(まず国家があり、その後に天皇があり、その天皇は国家の代表として一切の権利を有する)を唱えた美濃部達吉が、天皇を絶対視する右翼の男に自宅で右足を撃たれ、重傷を負いました。

1942年 食糧管理制度…太平洋戦争がはじまり、主食が不足するようになったため、「食糧管理法」を公布しました。これにより、米・麦などを農民に供出させ、国民に配給するしくみを作りました。戦後も食糧は不足していたために、GHQはこの制度を続けるように命じ、1994年に「食糧法」が公布されるまで続きました。
投稿日:2014年02月21日(金) 05:54

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)