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「国際的作曲家」 武満徹

今日2月20日は、『ノベンバー・ステップス』『弦楽のためのレクイエム』などの純音楽、数かずの映画音楽の作曲で話題を集め、エッセイストとしても知られる武満徹(たけみつ とおる)が、1996年に亡くなった日です。

1930年、東京・本郷で生まれた武満徹は、生後1か月で父の勤務先である満州の大連に渡りました。1937年に単身帰国すると、7年間にわたって叔父の家ですごし、叔母が箏(そう)曲の師匠だったことから琴の音に親しむものの、古典的なクラシック音楽には興味を示すことなく、戦時中は、典型的な軍国少年としてすごしました。

終戦後は、進駐軍のラジオ放送を通してフランクやドビュッシーらの近代フランスの作品に親しむいっぽう、横浜のアメリカ軍キャンプで働いてジャズに接しました。やがて音楽家になる決意を固め、短期間清瀬保二に作曲を師事するものの、ほとんど独学で作曲を学びました。私立京華高校をへて、1949年に東京音楽学校を受験するものの、学校で学ぶ意義が見いだせず、テスト途中で取りやめたと記しています。

1950年、清瀬らが開催した「新作曲派協会」の作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家としてのデビューをはたすいっぽう、画家の『ポール・クレー論』を書いています。翌51年には、滝口修造や湯浅譲二らと画家や詩人たちのグループ「実験工房」を結成して、新しい実験音楽を創作しましたが、なかなか理解がえられませんでした。しかし、このころから、映画、舞台、ラジオ、テレビ、コマーシャルなど幅広いジャンルで活動するうち、しだいに注目されるようになってきます。

そして1957年、亡くなったばかりの友人作曲家早坂文雄へ献呈した『弦楽のためのレクイエム』を発表すると、来日していたストラビンスキーが、たまたまNHKのラジオ放送で聴いて絶賛したことで、のちに世界的評価を受けるきっかけとなりました。また、1958年に行われた「20世紀音楽研究所」の作曲コンクールで8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』が入賞すると、1959年に同研究所に参加して、2本のフルートのための『マスク』、1961年にはオーケストラのための『リング』、日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』などを発表して好評をえました。また、手がけてきた映画音楽のうち、1961年羽仁進監督の『不良少年』が第16回毎日映画コンクール音楽賞を受賞したほか、翌62年小林正樹監督の『切腹』、64年勅使河原宏監督の『砂の女』、66年同監督の『他人の顔』もそれぞれ同コンクールに受賞し、一般大衆にも著名作曲家として広く知られる存在になりました。

さらに1967年には、友人でボストンで活躍する指揮者小沢征爾を通じ、ニューヨーク・フィルハーモニー音楽監督のバーンスタインに、武満が邦楽を純音楽に取り入れて成功している話が伝えられると、125周年を迎えた同オーケストラの記念作品を委嘱され、『ノベンバー・ステップス』を発表しました。オーケストラと尺八や琵琶が組み合わされた作品は大絶賛されるとともに、たくさんの武満作品が、アメリカやカナダ、ヨーロッパを中心に海外で取り上げられるさきがけとなりました。

1970年には、日本万国博覧会(万博)鉄鋼館の音楽監督をつとめ、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱されたオーケストラ曲『冬』を作曲しました。それらの体験をもとに1973年からは現代音楽祭「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、海外の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介しました。

著作にも優れ、『音楽を呼びさますもの』『樹の鏡、草原の鏡』『音・言葉・人間』『夢の引用』など、現代音楽と文化全体に対する問題提起に鋭いものがあると高く評価されています。


「2月20日にあった主なできごと」

1607年 歌舞伎踊り…出雲の阿国が江戸で歌舞伎踊りを披露、諸大名や庶民から大喝采をあびました。

1886年 石川啄木誕生…たくさんの短歌や詩、評論を残し、「永遠の青年詩人」といわれる石川啄木が生れました。

1928年 初の普通選挙…それまでの選挙権は、国税を3円以上おさめる成人男性に限定されていましたが、大正デモクラシーの勃興や護憲運動によって、納税額による制限選挙は撤廃され、25歳以上の成年男性による普通選挙が実現しました。
投稿日:2014年02月20日(木) 05:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)