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『日本資本主義発達史』 と野呂栄太郎

今日2月19日は、マルクス経済学者で、戦前の非合法政党時代の日本共産党の理論的指導者だった野呂栄太郎(のろ えいたろう)が、1934年に拷問の末に亡くなった日です。

1900年、北海道札幌に近い長沼町に生まれ育った野呂栄太郎は、旧制北海中学から秀才として注目され、慶応大学理財科(現・経済学部)に入学しました。マルクス主義を研究し、社会問題研究会を設立したり、野坂参三がおこした産業労働調査所や、日本総同盟の労働学校にかかわって『資本論』を講義するなど、社会問題や社会運動と深くかかわりました。

ところが、1926年の卒業の日、京都大学連事件に連座して、京大生38人とともに治安維持法違反として10か月の禁固がいい渡されてしまいました。野呂は、胸を患ったことで同年8月に病気療養のために保釈されますが、家宅捜索を受けたことで、集めていた日本資本主義に関する資料を没収されたため、わずかの資料をもとに、1930年に卒論を補完した『日本資本主義発達史』を刊行しました。この著書は、日本資本主義に関する科学的研究のさきがけとなるものとして、高く評価されています。

また、日本共産党に入党後の1931年、マルクス主義を体系的にまとめた『日本資本主義発達史講座』(全7巻)の企画・編集には山田盛太郎、平野義太郎と加わり、野呂自身は、病気と弾圧のためにこの講座に論文を執筆することはできませんでしたが、このシリーズはわが国の近代史研究の発展に大きな貢献をしています。

1932年10月の「熱海事件」(熱海温泉で共産党幹部が地方代表者会議を開催するという情報を入手した警視庁特別高等警察[特高]が、全員を逮捕した事件)により、壊滅状態におちいった共産党をたてなおそうと、肺結核で療養中でありながら野呂は、翌年8月1日の国際反戦デーにストライキ及びデモ活動を呼びかけたり、9月18日の満州掠奪戦争一周年記念日には反戦のための行動を指示するもののいずれも失敗し、まもなく検挙されてしまいました。各署たらいまわしの末、この日品川警察署での拷問により病状が悪化、北品川病院に移された後、33歳の若さで絶命したのでした。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、岩波書店社主の岩波茂雄や平野義太郎あての野呂の書簡ほかを読むことができます。 


「2月19日にあった主なできごと」

1185年 屋島の戦い…源義経ひきいる源氏軍は、平氏のたてこもる屋島(現・高松市)が、干潮時には騎馬でわたれることを知ってわずかな兵で強襲を決意。この日、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけて一気に攻めこむと、平氏軍はろうばいして海上へ逃げ出しました。こうして、平氏は瀬戸内海の制圧権を失い、一ノ谷、壇ノ浦の戦いを経て、源平合戦の大勢が決しました。

1473年 コペルニクス誕生…宇宙が太陽を中心として回転しているという「地動説」を唱えた天文学者コペルニクスが生まれました。

1837年 大塩平八郎の乱…大坂(現大阪)で大坂町奉行所の元与力の大塩平八郎とその門人は、「幕府の役人の悪政や富商の莫大なもうけを攻撃する」と檄文をまき、多数の富商に火をつけ、大坂の2割を消失させました。乱そのものは小規模でしたが、江戸幕府の弱体ぶりを示した大事件でした。

1972年 あさま山荘事件… 連合赤軍のメンバー5人が、この日河合楽器の保養寮「浅間山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に10日間にわたって立てこもりました。
投稿日:2014年02月19日(水) 05:22

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)