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「原爆製造」 とオッペンハイマー

今日2月18日は、理論物理学分野で国際的な業績をあげ、アメリカの原子爆弾開発プロジェクト「マンハッタン計画」を主導した物理学者のオッペンハイマーが、1967年に亡くなった日です。

1904年、ドイツ移民で裕福な織物業者の子としてニューヨークで生まれたジュリアス・オッペンハイマーは、早熟な子どもで、早くから地質学、数学、化学、18世紀の詩や芸術に興味を持ち、数か国の言語をあやつるほどでした。

1922年にハーバード大学に入学し化学を専攻すると、わずか3年で最優秀の成績を修めて卒業。イギリスのケンブリッジ大学に留学してキャベンディッシュ研究所で学ぶうち、実験を伴う化学から理論中心の物理学の世界へ移り、理論物理学が発展していたドイツのゲッティンゲン大学へ移籍して博士号を取得しました。帰国後の1929年、25歳の若さでカリフォルニア大学・カリフォルニア工科大学の教授となって、1942年までに両校で、量子力学や原子核物理学の研究を行い、宇宙線を観測中に発見した新粒子が陽電子と中間子であることを指摘したり、宇宙線シャワーとして知られたその機構を明らかにし、ブラックホールをめぐる先駆的な研究を行うなど、アメリカの理論物理学界をリードするとともに、たくさんの物理学研究者を育てました。

第二次世界大戦の勃発後、1942年にアメリカ陸軍が中心となって秘密のうちに原子爆弾開発をめざす「マンハッタン計画」がはじまると、ロス・アラモス国立研究所の初代所長に任命され、原爆製造研究チームをの責任者となって世界初の原爆を開発、1945年6月にニューメキシコでの核実験を成功させ、同年8月に日本の広島と長崎に投下されました。

大戦後は大学にもどりましたが、1947年にはアインシュタインらの所属するプリンストン高等研究所の所長に任命されると、核兵器の国際的な管理を呼びかけ、原子力委員会の議長兼アドバイザーとなりました。水素爆弾(水爆)などいっそう強力な核兵器が開発されると、これらの製造に反対、ソ連との核兵器競争を防ぐための努力をします。

ところが1954年、水爆に賛成する科学者らに危険人物とされ、公職を追放されたばかりか、原子力関連文書に近づくことさえ禁止されてしまいました。こうして、オッペンハイマーは、私生活も常にFBIの監視下におかれてしまいました。1961年、ケネディ大統領の時代にアメリカ政府はこの措置を取り消し、1963年には「フェルミ賞」を贈りましたが、現代における「科学と国家との関係を象徴する事件」といわれています。

なお、オッペンハイマーは1966年までプリンストン高等研究所長をつとめましたが、後年は、原子爆弾開発を主導したことを後悔し、それへの罪の意識から、わが国の湯川秀樹や朝永振一郎らを含む世界中の科学者を招待するなど、この研究所を理論物理学の研究センターに築き上げたことは、いまも高く評価されています。


「2月18日にあった主なできごと」

1207年 法然と親鸞流刑に…「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえれば、来世で極楽浄土に生まれかわることができると説く「浄土宗」を開いた法然と弟子の親鸞は、旧来の仏教宗派に念仏の中止を訴えられ、法然は土佐に、親鸞は越後に流されました。

1546年 ルター死去…ドイツの宗教家で、免罪符を販売するローマ教会を批判し、ヨーロッパ各地で宗教改革を推し進めたルターが亡くなりました。

1564年 ミケランジェロ死去…レオナルド・ダ・ビンチ、ラファエロと並び、ルネッサンスの3大巨匠といわれる彫刻家・画家・建築家・詩人として活躍したミケランジェロが亡くなりました。

1930年 冥王星の発見…アメリカの天文学者トンボーは、存在が予測されていた冥王星を発見し、太陽系の一番外側を回る9番目の惑星とされました。しかし、2006年に国際天文学界は、惑星ではない「準惑星」に分類しました。
投稿日:2014年02月18日(火) 05:57

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)