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普通選挙法を制定した加藤高明

今日1月28日は、日英関係の強化につとめ、4度にわたる外務大臣を歴任、第24代総理大臣のときは「普通選挙法」「治安維持法」を成立させた加藤高明(かとう たかあき)が、1926年に亡くなった日です。

1860年、尾張藩(愛知県)の下級藩士の子として生まれた加藤高明(幼名・服部総吉)は、旧制愛知一中、名古屋洋学校を経て、1881年に東京帝大(現・東大)法学部をトップで卒業、役人の道を選ばずに三菱に入社、岩崎弥太郎にみとめられて、1983年イギリスへ渡って海運業と議会制度を学びました。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、新たに設立された郵船会社に移り、岩崎の長女と結婚して財界との結びつきを強めました。

1887年、イギリス滞在中に知り合った陸奥宗光に要請されて外務省に入ると、井上馨・大隈重信両外相の秘書官として、抜群の実務能力・英語力を発揮して条約改正の実務にあたり、1890年には大蔵省に転じて、銀行局長、主税局長として有能ぶりを示しました。日清戦争がはじまった1894年にはイギリス公使となり、戦争前後の4年間、イギリスと良好な外交関係をたもつことにつとめました。

1900年、第4次伊藤博文内閣の外務大臣になると、イギリスやドイツに働きかけて、帝政ロシアの満州占領に抗議するなど、ロシアに対する強硬外交を推進しました。1902年秘密のうちに「日英同盟」がむすばれ、1904年に日露戦争が勃発しますが、同年に「東京日日新聞」を譲り受けて社長になると経営に専念し、日露講和条約の不備を紙上で攻撃しました。1908年には、小村寿太郎外相の求めに応じ、翌年イギリス大使として着任、1911年には関税自主権を撤廃する「新・日英通商航海条約」に調印しています。

1913年加藤は、第3次桂内閣の要請により3度目の外務大臣となりましたが、立憲政治を守ろうとする尾崎行雄らによる「第1次護憲運動」によって内閣が倒れると、桂のつくった立憲同志会を受けつぎ、総裁に就任しました。これをバックに、1914年に成立した第2次大隈内閣の外相となり、日英同盟を理由に第1次世界大戦に参戦し、翌1915年に中国政府に対し「二十一か条の要求」を認めさせました。これは、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に引き継ぐなど、中国の主権をおびやかすもので、中国の民族運動を発展させるきっかけになりました。加藤の判断で推し進めたこれらの外交は、山県有朋らの反感を買い、同年に外相を辞任して政界から遠ざかりました。

1924年、憲政会の総裁となっていた加藤は、政友会の高橋是清、革新倶楽部の犬養毅と3党首会談を行い、「護憲3派」を結成して、第2次護憲運動を展開しはじめました。5月の総選挙で第1党となった憲政会は、高橋、犬養を閣僚に加え、加藤は護憲3派内閣の総裁となりました。1925年に公約だった「普通選挙法」を成立させるとともに、治安維持法も成立させました。

その後3派は分裂して総辞職したことで、憲政会単独で組閣するものの施政方針演説後にそのまま倒れ、亡くなったのでした。


「1月28日にあった主なできごと」

712年 古事記完成…太安万侶が元明天皇に「古事記」を献上しました。「古事記」は「日本書紀」と並ぶ古代の2大歴史書の一つで、稗田阿礼が記憶していた歴史を、安万侶がまとめあげたものです。

1547年 ヘンリー8世死去…イングランド王で、カトリック教会から離れ、イングランド国教会の首長となったことで知られるヘンリー8世が亡くなりました。

1582年 天正少年使節…九州のキリシタン3大名大友宗麟、有馬晴信、大村純忠は、伊東マンショら少年4名を「天正少年使節」として、ローマ法王に謁見させるため、長崎の港から送り出しました。
投稿日:2014年01月28日(火) 05:41

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)