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「超現実主義」 のダリ

今日1月23日は、『記憶の固執』『ゆでたいんげん豆のある柔らかい構造』『燃えるキリン』などを描き、シュールレアリスムを代表するスペインの画家ダリが、1989年に亡くなった日です。

1904年、スペインのバルセロナに近いフィゲラスの裕福な公証人の子として生まれたサルバドール・ダリは、少年時代から絵画に興味を持つものの、厳格な父に反発して勉学を拒否、他人とちがった行動をとるようになっていきました。

1922年にマドリードのサンフェルナンド国立美術学校に入学すると、優秀な学生だったにもかかわらず、のちに国民的詩人となるロルカや、著名な映画監督となるブニュエルらと知りあううち、学生デモを扇動したり、教師の指導を批判したりするようになりました。ダリの再三にわたる反抗に苦慮した学校は、1926年に退学処分をいいわたしました。

まもなくダリは、初の個展をマドリードで開きました。出品した『パンかご』『窓辺の人物』などが美術評論家をはじめ一般の注目を集めたことで自信をえたダリは、翌1927年にパリに出て新しい芸術運動である「シュールレアリスム(超現実主義)」運動に参加しました。グループの中心人物であるピカソ、ツァラ、エリュアール、ブルトンらと交流を深め、1928年には、美術学校時代の友人ブリュエルとシュールレアリスムの代表的映画『アンダルシアの犬』を共同制作しました。

1929年の夏のある日、エリュアールが妻のガラとともにダリを訪ねたところ、ダリとガラは出会った瞬間に恋に落ち、やがて結婚します。ふたりは生涯を共にすることになりますが、ガラはダリのモデルであり、マネージャーであり、支配者だったといわれています。

柔らかい時計に溶けかける顔、青と黄色の空など、世間の常識を打ち破る独自の手法による『記憶の固執』『ゆでたいんげん豆のある柔らかい構造』『燃えるキリン』『ナルシスの変貌』など、話題作を連発することで、画家として着実に名声をあげていきました。ところがダリは、世間の注目を集めるために狂人を演じたり、人の気持ちを逆なでする行動や言動をとっていました。ナチスを支持するような言動が仲間のプルトンの逆鱗にふれたことで、1938年にグループから除名されてしまいました。しかしダリの人気は世界的なものになっていたため、国際的なシュールレアリスム展などには、かならず招待されました。

ダリが大成功をおさめたのは、アメリカでした。1939年に第2次世界大戦の戦禍を避けてアメリカにわたったダリは、ニューヨークの一流デパートにウィンド・ディスプレーを依頼されました。最後にショーウィンドーのガラスを割って完成させたところ、この事件は全米に報道され、直後にひかえていた個展の大成功につなげたのでした。

1948年、スペインに帰国したダリは、ポルト・リガトに居を定めて制作活動を行い、ガラをモデルに大作『ポルト・リガドの聖母』(福岡市美術館蔵)を描いています。このころから、故郷スペインの人々のカトリック信仰を深めるようになり、この作品の構図をローマ教皇に見せたところ、祝福を受けたと記しています。宗教的な主題と同時に物理学、自然科学、幾何学を融合するような古典的味わいのある絵は、同時代のシュールレアリストたちから「もはやダリはわれわれの仲間ではない。偽善だ」といわれるほどの変貌でした。、

なお、ダリの多くの作品や写真などは、インターネットの「ダリの画像」をごらんください。


「1月23日にあった主なできごと」

1866年 寺田屋騒動…2日前に薩長同盟を締結させた坂本龍馬は、宿泊先の京都・寺田屋で、伏見町奉行所の捕り方に襲撃されました。同宿の養女・お龍(のちの妻)は風呂から裸のまま2階へかけ上がり危機を知らせました。龍馬は銃で応戦、左手の親指を負傷しながらも脱出に成功しました。

1869年 薩長土肥藩の版籍奉還…諸大名の封建支配が続いていては、真の国家統一はむずかしいと考えた明治政府の首脳木戸孝允や大久保利通らは、その旧主に版籍(土地と人民)を政府に返還させることにしました。この日、薩長土肥4藩主の連名で、版籍奉還の上表文を提出。これをきっかけに、3月までに諸藩主すべてが奉還を願い出ました。
投稿日:2014年01月23日(木) 05:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)