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「永遠の妖精」 ヘップバーン

今日1月20日は、映画『ローマの休日』をはじめ、『ティファニーで朝食を』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』など、可憐で繊細な魅力を発揮する銀幕のスターとして世界じゅうの人々を魅了したオードリー・ヘップバーンが、1993年に亡くなった日です。

1929年、貿易商の父とオランダ貴族出身の母との子としてベルギーのブリュッセルに生まれたオードリー・ヘップバーンは、5歳のころ戦争をさけるためにイギリスへ渡りました。ロンドン郊外の寄宿学校に通いましたが、10歳のときに両親が離婚したことで、母と共にオランダのエラムという小村に移住してバレエのレッスンを始めました。ところがまもなく第2次世界大戦がはじまり、村はドイツ軍に侵攻されて生活に行きづまり、チューリップの球根と水だけで過ごす日もあったようです。それでも、オードリーは母とともにドイツ・ナチスに抵抗する危険なレジスタント運動に加わるかたわら、1939年から45年までアムステルダムのアーネム音楽院に通い、通常の学科のほかにウィニャ・マローバのもとでバレエを学び、自身の心と身体を厳しく鍛えました。

戦争が終わった1948年、単身ロンドンに渡ってマリー・ランバート・バレエ学校に入学し、モデルや映画の端役などをしながらプロデビューの機会をねらっていましたが、なかなか思うようにはいきません。そんなある日、ある映画撮影現場で、フランスの作家コレット女史に出会いました。自作のミュージカル『ジジ』の主役を探していたコレットは、オードリーを主役に抜てきしようと決意したのです。こうして、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』で主役を演じたところ大評判となり、総公演は219回を数えました。この舞台を観たことで、次回作の『ローマの休日』の主役を探していた映画監督のウィリアム・ワイラーは、のちにこう語っています「オードリーは、私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は『この娘!』と叫んだよ」……と。

こうして1953年に公開されたアメリカ映画『ローマの休日』(ヨーロッパ某国の王女アンを演じるヘプバーンとグレゴリー・ペック演じる新聞記者とのローマでの切ない一日の恋を描いた作品) は空前のヒットとなり、一大ブームを巻き起こしました。この作品でオードリーは、アカデミー賞最優秀主演女優賞をはじめ、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞などを獲得しました。その後はスター街道を突き進み、『麗しのサブリナ』『尼僧物語』『ティファニーで朝食を』『シャレード』『マイ・フェア・レディ』『暗くなるまで待って』などに主演し、大きな話題を提供しつづけました。

1989年の『オールウェイズ』を最後に映画界を引退したオードリーは、戦争中に飢餓を体験したことで、子どもたちが飢えたり、死んでいく現状を見過ごすことができず、後半生のほとんどは、国際連合児童基金(ユニセフ)に親善大使として参加することを決意。内戦や飢餓に苦しむアフリカのソマリアをはじめ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身しました。1992年末には、ユニセフ親善大使としての活動に対して米国大統領自由勲章を授与されましたが、受勲わずか1か月後に、スイスの自宅でがんのため、63年の生涯を終えたのでした。


「1月20日にあった主なできごと」

1875年 ミレー死去…『晩鐘』や『落ち穂ひろい』などの名画で、ふるくから日本人に親しまれているフランスの画家ミレー が亡くなりました。

1926年 ダイヤル式自動電話の設置…日本で初めてダイヤル式自動電話機が、東京・京橋電話局に設置されました。それまでの電話は、電話交換手に相手先を伝えて、接続してもらっていました。

1947年 学校給食…太平洋戦争後の食糧難で栄養失調となる児童を救うため、アメリカの慈善団体ララ(アジア救済連盟)から贈られた脱脂粉乳などの物資をもとに、全国主要都市の小学生およそ300万人に学校給食がはじまりました。

投稿日:2014年01月20日(月) 05:37

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)