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『ローマ帝国衰亡史』 のギボン

今日1月16日は、不朽の名著といわれる『ローマ帝国衰亡史』を著したイギリスの歴史家ギボンが、1794年に亡くなった日です。

1737年、ロンドン近郊パトニーに地主の子として生まれたエドワード・ギボンは、幼少年期は病弱のため通学することができずに、読書にふける毎日でした。健康が回復した1752年、紳士階級の子息としてオックスフォード大学のカレッジに入れられたものの、ギボンが信仰をローマカトリック教会へ傾きかけたことを知った父親は、スイスのローザンヌに住むカルバン派の牧師に預けました。ここですごした5年間は実りあるもので、終生にわたるぼう大な学識の基礎となり、のちにギボンは「私をローザンヌへ追いやった幸運な追放のたまもの」と記しています。

1758年ハンプシャーの実家にもどって読書生活をし、2年間の軍隊生活後の1763年、ギボンはふたたびヨーロッパ大陸に渡り、パリでディドロやダランベールらと親交を深めました。さらに旅行を続ける1764年10月、ローマにあるカピトルの廃墟で裸足の托鉢僧の夕べの祈りを耳にするうち、この都市の栄えと衰えを記そうという霊感を受けました。こうして、ギボンの主著となる『ローマ帝国衰亡史』の執筆がはじまり、「第1巻」(96〜278年のローマ)が1776年に刊行され、ローマの幸せな時代=パックス・ロマーナの五賢帝統治にはじまり、五賢帝のひとりトラヤヌス帝の時代に帝国の領土は最大となり、現在の西・東ヨーロッパからトルコ・シリア・エジプトに至る地中海をひとめぐりするほど広大にしたこと。そして、マルクス・アウレリアス帝が慣行を破って実子に譲り渡したことがきっかけになって帝国衰亡の歴史がはじまり、軍人出身者が皇帝となる軍人皇帝時代を経て、属州の反乱やササン朝ペルシア王との抗争で幽閉されるワレリアヌス帝までを描きました。著書は大変な反響をよび、その後12年間をこの続編に力をそそぎました。

その後の続編についての詳細は省略しますが、ローマ帝国が専制君主制となり、帝国4分割統治を導入して国家体制を整えるものの、303年に信者を増やしてきたキリスト教を弾圧したのが裏目に出て退位後は再び混乱、コンスタンティヌス大帝の30年の統治により新首都コンスタンティノポリス(現トルコ・イスタンブール)の建設、キリスト教を公認して国教化をなしとげ、ローマ帝国の中心は、政治、経済とも東方へ移ることになりました。大帝の退位後はふたたび衰退し、東ローマ帝国と西ローマ帝国に分裂。西ゴート族が帝国内に侵入してゲルマン民族大移動が始まるものの、テオドシウス大帝がゴート族と和解を成立させて安定期をむかえます。しかし死後、ゴート族が西ローマ帝国の首都ローマに侵入して占領、476年に西ローマ帝国は滅亡し、ガリア地方にフランク王国が成立します。ブルガリア地方出身のユスティニアヌス大帝が登場すると東ローマ帝国は、旧ローマ帝国最盛期に近い領土を回復させました。ところがその死後は、北方のスラブ民族の侵入するなど衰退。8世紀の前半にレオ三世の登場により繁栄の時代をむかえるものの、台頭してきたイスラム教に対抗するため「聖像崇拝禁止令」を発布したことで、キリスト教はローマ・カトリックと、ギリシア正教に分裂します。ビザンチン帝国(東ローマ帝国)は、ギリシア正教を中心としたヘレニズム・ローマ文化と西アジアの要素を融合した「ビザンチン文化」を生みだすものの、ビザンチン帝国は、11世紀ごろから台頭してきた大土地所有貴族によってしだいに皇帝の権力が弱体し、11世紀後半には、セルジュク・トルコによってコンスタンティノポリスを占領され、1453年に1000年も続いた東ローマ帝国は滅亡したのでした……。
 
ギボンが不朽の名著といわれる本書の執筆に費やした時間は、約20年。この間1774〜80年、1781〜83年の2回にわたり下院議員となっていますが、引退後は、若き日の思い出の地スイス・ローザンヌに移り、さらにつづく『ローマ帝国衰亡史』の最終編や『自叙伝』を著しています。


「1月16日にあった主なできごと」

754年 鑑真来日…中国・唐の時代の高僧である鑑真は、日本の留学僧に懇願されて、5回もの渡航に失敗し失明したにもかかわらず、弟子24人を連れて来日しました。律宗を伝え、東大寺の戒壇院や唐招提寺を創建したほか、彫刻や薬草の知識を伝えました。

1919年 アメリカで禁酒法…酒は犯罪の源であるとされ、酒類の醸造・販売を禁止する「禁酒法」がこの日から実施されました。ところが、ギャング(暴力団)よって酒の醸造・販売が秘かにはじめられ、警察官を買収するなど、莫大な利益をあげるようになりました。禁酒法が悪の世界を肥らせ、社会にたくさんの害毒を流しただけに終わり、1933年に廃止されました。

1938年 第1次近衛声明…1937年7月北京郊外の盧溝橋発砲事件にはじまった日中戦争の本格的な戦局は一進一退、早期の戦争終結の見こみが薄くなったことで和平交渉を打ち切り、近衛文麿政府は「これからは蒋介石の国民党政府は相手にしない」という声明を発表して国交断絶、はてしない泥沼戦争に突入していきました。

1986年 梅原龍三郎死去…豊かな色彩と豪快な筆づかいで独自の世界を拓き、昭和画壇を代表する画家の梅原龍三郎が亡くなりました。
投稿日:2014年01月16日(木) 05:23

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)